毛利家庶家・一門の形成

庶家というのは宗家(本家)からでた分家のことで、
毛利家でいうと、南北朝時代に宗家からわかれたもので、
有力庶家として、坂氏、有富氏、麻原氏、中馬氏、福原氏、河本氏があげられる。
(↓は南北朝時の毛利家略系図)


大江広元

(4代略)

            ┌―――┴―――┬―――――――┐
               有富直時     坂匡時     毛利元春(本家)
           ┌―――――┬―――――┬――――┤
               福原広世 中馬忠広 麻原広内 毛利広房(本家)


この有力庶家の発展は南北朝時代の動乱を使って、
地頭職をもっている吉田荘だけでなく、荘園の枠を超えて、
下級荘官や悪党などと手を結んで、領土を東、西と着実に広げていった。
そこで、坂村、有富村、麻原村、中馬村、福原村、河本村の諸村に本拠を置き、
在地名を名乗った庶家が誕生したのである。
庶家は本家の毛利氏を中心として同盟を結んだ形の武士団が形成されていった。
庶家の力が本家と変わらないというものであったが、本家を中心にして動いており、
また、15世紀中頃にはすでにこの地域の荘園領主は弱体化していた。

毛利氏は本家を中心とする一家中としての同盟的な衆中組織で、
庶家の本家に協力する行動もあれば、独立しようとする行動もあるため、
麻原氏などは度々、毛利本家にそむいたりしているため統制に苦しんでいる。
そののち、室町時代になると、本家が庶家を統制する権限があり、
幕府の承認を得れば庶家を罪科に処することができた。
この頃の毛利家本家は室町幕府の権威を必要としており、
当時の本家の当主・毛利熙元は1455年に幕府に※奉行奉書を出してもらっている。
※この奉行奉書とは幕府が毛利一族(庶家)に対して、
本家の毛利熙元の命に従うようにといったものであった。※
この頃は備後の守護職の山名氏の庇護(弱い立場の援助)を受けていたが、
被官(家臣化した武将)にはならず、
また安芸守護の武田氏に対しては、守護領国制には組み込まれることなく、
逆に対立して、安芸武田氏の権力では毛利氏の領国には入ることができなかった。
室町幕府の地方権力として守護領国制がすすめられていたが、
毛利氏はそれに入らず、独自の衆中組織を展開して国人領主となっていく。

さて、同盟的な衆中組織として機能してきた毛利氏は、
本家と庶家の関係があまりかわらないものであったが、
室町時代の中期からそれが変わってくる。
応仁の乱に最初は東軍で参加した毛利氏は西軍へと寝返りますが、
その頃には譜代の組織が整い始め、その結果に庶家が押さえられます。
毛利本家は庶家が領有していた土地にも力がおよびます。
郷村単位に譜代の奉行が置かれて、渡辺氏や井上氏などがそれである。
これがもとで、戦国時代に入ると力のある庶家はかなり少なくなり、
福原氏と坂氏の分家である志道氏、口羽氏、桂氏ぐらいになっていた。
また、麻原氏のあとの門田氏や、中馬氏のあとの長屋氏、その分家の平佐氏などは、
すでに譜代的な性格であった。↓は坂氏の分家系図

大江広元

(4代略)
         ├―――――┐
              坂匡時   毛利元春(本家)



坂広明 
            ┌―――┴―――┬―――――――┐
           志道元良       坂広時       坂広明
 ┌――――――┤           |          |
 口羽通良     志道広良       坂広秀       桂広澄


この後、毛利氏が戦国大名として成長・飛躍していくと、
庶家の地位低下になり、家政運営の人材が足りなくなっていたため、
これを打開するために創出したのが一門で、
吉川元春、小早川隆景の毛利両川体制は勿論のこと、
※3男以下の武将は毛利輝元の年代に近かったために戦闘でも活躍している。

※穂田元清、椙杜元秋、天野元政、末次元康、小早川秀包をさす。
しかし6男の出羽元倶は早世。
また、吉川元春の次男・繁沢元氏や穂田元清の嫡男・毛利秀元、
二宮就辰も一門の中に数えられている。


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