安芸坂氏

☆坂氏の起源☆

毛利親衡の次男・匡時が安芸の坂郷に移り、地名を名乗り坂と名乗った。
武田氏信が坂城を包囲したりもしたが、その後には坂氏の居城となっている。
毛利本家に仕え、坂広明が毛利豊元になど代々が執権職をつとめた。

☆坂氏一族☆

坂広時

毛利元就が尼子氏へと通じると、
大内氏よりであったために、毛利元就に責められ自刃した。


坂広秀

桂広時の息子。
1523年の毛利元就の宗家相続依頼の時には、
宿老15人の中の1人として署名している。
しかし、渡辺勝らと組んで尼子氏と通じて毛利元就を殺害し、
毛利元就の弟の相合元綱をたてようとするのが露見したため殺害される。

坂元貞

毛利家譜代の志道広良の次男。
坂広秀の跡をついで、坂氏を再興させると、
父の志道広良から所領を譲与され、
その後、毛利元就や毛利隆元からも所領を安堵されている。


坂元祐

坂氏の一族と伝えられている。
坂広秀らが殺害されると、平賀隆宗の元に落ち延びたといわれ、
平賀隆宗が死去すると、成人後には毛利家に仕える。
1555年には周防の玖珂郡山代五ヶ地方の土豪を編成して山代衆の指揮官となり、
山代衆に関連することはほとんど取り仕切っている。
1556年には山代衆を率いて長門へ出陣し、さらに出雲にも出陣すると、
1562年には豊前に出陣して立花城攻めを行う。
立花城に入ると乃美宗勝と共に守将となり、その後無事に撤退した。

坂広昌

毛利輝元の元服式で烏帽子の役を務める。

坂保良

折敷畑の戦いで、坪井将監と共に敵陣に突進し、
暫く戦うと後退して敵を誘き寄せることを務めた。


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