九州一閃! 〜如水の関ヶ原〜 前編

● 1998(慶長三)年に太閤豊臣秀吉が逝去してからというもの、
秀吉子飼いの武将達と家康の対立が次第に表面化し始め、
翌年の加賀大納言前田利家の逝去によって、それは決定的となった。
そして1600(慶長五)年七月十二日、
ついに石田三成が家康打倒の旗を揚げた。

● その頃、黒田如水は中津で療養中であった。
それでも近いうちに大乱があることを読んでいたので、
大坂、鞆、上関の三カ所に早舟を配置していた。
そして七月十七日、ついに三成挙兵の報を受けた。
これを受けて如水は、天下に旗を掲げることを決心した。

● 如水は、まず加藤清正を味方につけ、
小早川秀秋、吉川広家らと連絡を取り、九州制圧の準備をした。
また、徳川家康にも音信を通じ、失敗したときのための保険とした。

● そして如水は、九月九日を出陣の日と定めた。
がしかし、黒田家の兵は乏しかった。
精兵の殆どは、嫡男の長政が率いていて、
国元には残っていなかった。
そこで如水は、領内一円から志願兵を募集した。
すると、我も我もと集まってきた。
すると如水は、大広間に日頃から節約してため込んだ金銀をぶちまけ、
集まった兵達を庭に集め、それを見せた。
それを集まった兵達に一騎あたり銀三百匁、
徒士のものには永楽銭一貫文ずつ与えた。

● また、如水はそのあとに舟で国東半島の周辺を廻り、
杵築の細川氏の元へと行き、援軍を約束し、盟約を結んだ。
そしてまた国東半島を廻り、中津に帰った。

● その頃豊後では、にわかに大きな軍隊が出来ていた。
その総大将は大友義統であった。
豊後を秀吉に没収され、毛利氏に預けられていたのが、
この戦に乗じて毛利氏から支援を受け、旧領回復へと動き出していた。

● 九月九日、予定通りに如水は集めた兵九千余を率いて豊後へと出陣した。
そして翌日、高田の城下に到着し、城主の竹中重隆に出兵を促した。
重隆は、先に如水と共に行動することを約束していたのだが、
大友氏の勃興によってそれを渋った。
それを聞き如水は高田城の攻略を命じた。
すると城内から急使が来て謝罪し、重隆の嫡子、
重義が二百余の兵を率いて黒田軍と合流した。
そして国東半島を横断し、富来城へと向かった。
その途中、杵築から急使が馳せ参じ、
大友勢に城を囲まれたことを伝えたので、
如水は井上周防に兵三千余を与え、救援に向かわせた。
十一日、富来城を囲んだが、士気が旺盛なので囲みを解き、
さらに南へと進軍した。
そして安岐城へと差し掛かったが、これも素通りした。
すると城内から軍勢が押し寄せたが、
その前に栗山備後の進言によって伏兵を配置していたので、
これを易々と撃退し、その大将である熊谷治部助を討ち取り、
さらに南へと向かった。

● その頃杵築では細川氏と大友氏が壮絶な攻防戦を繰り広げ
十三日、残るは本丸のみとなったところに、井上周防率いる軍勢が到着した。
これを聞いた大友勢は囲みを解いて本拠の立石城まで退却したので、
井上周防率いる軍勢は、細川氏の救援に成功した。
井上周防は城内に入り、
翌十四日、細川勢三百余を加えて立石城へと向かった。

後編へ続く

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