九州一閃! 〜如水の関ヶ原〜 後編


● 立石城までたどり着いた大友義統は、
黒田軍三千余と細川軍三百余が進軍してきたと知ると、
その家臣である吉弘嘉兵衛の献策により、
立石城の眼下にある、石垣原にて決戦することを決め、陣を布く。
その陣容は、吉弘嘉兵衛を先陣に、
宗像鎮統を中陣に、木辺兵部入道を後陣として、全軍三千余を三段に構えた。

● さて、井上周防率いる黒田・細川軍は、この石垣原にて大友軍と遭遇した。
そこで井上周防は体勢を立て直して全軍を三陣に並び替え、
第一陣を時枝平太夫と母里与三兵衛に任せ、
第二陣を久野治右衛門と曾我部五左衛門に任せ、
そして第三陣を自ら率いた。
そして、第一陣を前進させ、合戦に突入した。

● これを受けた大友方第一陣の吉弘嘉兵衛は、
巧みな戦術で黒田方の第一陣を翻弄し、壊滅寸前まで追い込んだ。
これを見た黒田方は、第二陣が救援に駆けつけ、
大友方も第二陣が戦列に加わり、激戦となった。

● しかし、大友方もなかなか頑強に戦い、
黒田方は第二陣の久野治右衛門が討ち死にし、
また曾我部五左衛門は大友方の宗像鎮統と一騎打ちの末、
差し違えて討ち死にした。
これを聞いた井上周防は、残る全兵力を率いて突撃した。
大友方も第三陣が戦列に加わり、いよいよ激戦となった。

● 乱戦の中、吉弘嘉兵衛と井上周防は遭遇し、一騎打ちとなった。
井上周防の鎧に嘉兵衛の槍先が当たること数回、しかし胸板は貫けず、
今度は井上周防によって馬から突き落とされた。
それでも脇差しを抜いて渡りあい、
井上周防の股を斬るなどして抵抗したが、ついに討ち取られた。

● 吉弘嘉兵衛が討たれたことによって、
大友軍の士気は衰え、ついに総敗軍となった。
この戦では、黒田方では主将の井上周防が傷を負い、
久野治右衛門・曾我部五左衛門は討ち死にし、
また多くの勇士も討ち死にしたが、
大友方では吉弘嘉兵衛を筆頭に宗像鎮統や木辺兵部入道など、
名ある宿将がことごとく討ち死にした。

● その頃如水は本隊と共に大神まで来ていたが、
井上周防からの急使で戦勝を聞くと、直ちに石垣原に向かい、
実相寺山に本陣を据えて立石城の攻略に取りかかった。
すると、そこへ竹田の城主の中川秀成が、
兵三百余を率いて如水の応援に来た。
如水はこれを攻城の一翼に加えた。

● 如水は立石城を力攻めせず、
母里太兵衛に命じて、義統に降服を進めた。
義統は軍議の末これを受け入れ、
十五日日没、剃髪して墨染めの衣をまとい、義統は降った。
義統を下野九兵衛に命じて中津へ押送すると、
十六日、安岐城を包囲して降服させ、その手兵を召し抱えた。
その後、今度は富来城へ向かい、これも陥落せしめた。
さらに、今度は栗山善助に一軍を授け、
毛利高政の支城、角牟礼城・日隈城を攻めさせた。
この二城も、容易に善助を迎え入れた。

● その頃加藤清正は、如水からの要請で石垣原に向かっていたが、
終戦を聞くと引き返し、
今度は小西行長の領土に侵入して宇土・八代の両城を攻め落とした。
また、中川秀成りは太田一吉の臼杵城を攻め、これを降服せしめた。

● これより前富来城の攻囲中に、
かねて配置してあった早舟が関ヶ原合戦の報をもたらすと、
如水は気持ちを切り替え、
十月五日、小倉の支城、香春岳を落とし、小倉の毛利吉成を降し、
筑前を通過し、今度は筑後の久留米城を攻めにかかった。
この久留米城も、容易に如水に降服した。
さらに如水は軍をすすめ、立花宗茂の柳川城に迫った。
宗茂は上国で奮戦したが、西軍が敗北したので、
長駆して柳川にたどり着き、籠城の覚悟を決めていた。
が、これも如水は清正と共に説得して降服させ、
鍋島直茂を誘降し、宗茂を先鋒として清正、直茂らと共に
薩摩との国境付近まで軍を進めた。
がしかし、家康と島津氏の和議が成立したので、
如水らは領国へと凱旋した。

● こうして如水は九州一円をおよそ2ヶ月余りで殆どを掌中に収めたが、
関ヶ原の本戦がわずか一日で終わってしまったことによって、
その天下への野心は打ち砕かれた。
如水は、これを機に天下への野望を捨て、華道や茶道を楽しむのである。
また、その嫡子、長政が上国で奮戦したので、
黒田家は筑前五十二万五千石余を与えられた。
こうして、如水の関ヶ原は幕を閉じたのである。

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