安芸国司氏

☆国司氏の起源☆

国司氏は高師泰の次男・師武が足利尊氏により、
所領を安芸の国司庄に得たことから、地名からとって国司氏と名乗り始まる。
毛利師親の幕下に属してその後は毛利家譜代家臣として活躍する。


☆国司一族☆

国司有純

毛利元就の幼い頃からの後見役。
その功績あって、小脇差を与えられる。


国司有相

国司有純の嫡男。
毛利豊元の娘を妻にもらうと、
毛利豊元の嫡男・毛利弘元、毛利興元、幸松丸の3代を、
毛利家の奉行として井上元景と共につとめた。
1499年に温科国親との戦いで敵を討ち取る戦功をあげると、
1511年の毛利興元の船岡山の戦いの戦功で領地をもらっている。
毛利元就の宗家相続の際には、共に奉行をつとめた井上元景とともに、
宿老15人の連署状を毛利元就に届けるなどした。
その功績を認められ、毛利元就より小脇差を与えられる。

国司元相

国司有相の嫡男。
毛利隆元の守役として活躍すると、
毛利隆元の元の字を拝領して、国司元相と名乗る。
尼子晴久による郡山城攻めのときに34人の敵を倒すと、
尼子攻めにも活躍するがこの時は傷を負っている。
松山城攻めでも戦功をあげると、
毛利隆元の五奉行制の一員となって活躍した。
また、足利義輝に槍の鈴の免許されている。

国司元武

国司元相の嫡男。
国司元相から五奉行の職を譲られ、貢献した。

国司就信

譜代家臣で、毛利元就を烏帽子親として国司就信と名乗る。
毛利隆元が山口に人質にいくとそれに従い所領を得る。
また、北九州の所帯裁判奉行を務めると、
さらに防長の段銭奉行をつとめて管理に活躍する。
さらに長門日山城の普請を行うと、大内義隆33回忌の執行を行った。
この後毛利輝元の命令で葬儀に列席するなどした。

国司元純

長生きをした古老で、毛利家の家風を尊重する武将としていわれた。

国司元信

山口の守将として活躍。
大内義隆の33回忌にも参加する。

安芸毛利氏家臣団に戻る   毛利元就万世記に戻る