毛利家国衆の形成

毛利家の国衆を指す場合には、
※封建的 な関係であった安芸・備後などの国人領主がそれにあたり、
1525年の天野氏から1553年の三吉氏、山内氏のまでがそうである。

※毛利氏が国人領主に領土を与える換わりに、国人領主は軍役奉仕を誓うものである。

毛利元就より前の時代は他の国衆と対等の付き合いをしていたことが理由で、
姻戚関係や兄弟の契約から同盟関係に入って臣従した為、独立性は維持していた。
同盟という形での臣従なので、独立軍団の出動命令とあれば出動する軍役はあったが、
譜代に課せられた公役は免除されていた。(公役は譜代の形成項参照)
国衆の家臣・被官の直接的命令権もなかったたが、
軍役ではようやく直接的に命令できる規定をつくるなど、
臣従はさせたが家臣にするのが課題となり、統制に非常に苦しむことなる。
また1つの策として、一族の分裂をする為に、国衆の本家の領地は安堵しているが、
庶家はほとんどを収公して遠隔地に分散させて統制をするなどした。

国衆について、毛利元就は毛利隆元に、国衆の懐柔の必要性を説く一方で、
息子3人に当てた教訓状では毛利氏を良かれと思う国衆は1人もいないといっている。
これは統制に非常に苦しんだ毛利氏の事情がわかる文面である。

また実際に形式的には熊谷氏や山内氏などは将軍直属の御内書を与えられたり、
国衆の領内の検地ができなかったりと家臣団化はできていないことがわかる。
検地については、太閤検地の時も国衆の領内で行われたのかはよくわからず、
結局、毛利家国衆が家臣団化したのは関ヶ原の戦い後の萩入りからと見られる。

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