安芸児玉氏

☆児玉氏の起源☆

武蔵国児玉郡を本貫としていたが、
安芸の地頭職を得て、その一族が安芸に土着した。
その後、毛利家家臣となり譜代の位置になる。


☆児玉一族☆

児玉元保

児玉広家の次男で、児玉元実の弟。
1516年の宍戸氏の五龍城攻めや、
有田合戦前後の武田元繁との対決に参加する。
1542年からの尼子氏是目で討死した。

児玉就秋

児玉広家の五男で、児玉元実の弟。
兄・児玉元為の養子となる。
毛利元就の側近として政務を行うほかに、
1535年の備後三吉氏の城・上里城攻めや、
1540年の平賀興貞との対決などに参戦する。
そのほか防長侵攻戦では吉川元春の軍勢に加わり、
石見を攻撃すると、そこに領地をもらっている。
さらには伯耆に出撃させる警固船の水夫の略奪や、
安芸飯山普請など数多く命じられている。


児玉就兼

児玉元実の嫡男。
1507年に安芸高田原の戦いにて戦功をあげる。


児玉就忠

児玉元実の次男。
児玉一族の児玉家行の養子となり、遺領を相続する。
毛利元就から行政に優れていると認められ、
桂元忠と共に毛利元就の側近となる。
1550年に毛利隆元の五奉行制になるとそれに加わり、
被官衆への打渡を任務する奉行人にも参画した。
五奉行となっても毛利元就とは被官関係で、
毛利元就と毛利隆元との間をつなぐ使者も行っていた。


児玉就方

児玉元実の三男。
兄・児玉就忠によって推挙されると毛利元就の側近となる。
1536年の安芸生田城攻めでは感状を得る。
その後、毛利氏直属水軍・川ノ内警固衆が形成されると、
飯田義武、宍戸元親と共に指揮官に任命される。
ここから、川ノ内警固衆と毛利氏をつなぐ役となり、
1561年の大友氏との対決、1570年の尼子氏との対決など、
川ノ内警固衆を率いて水軍として活躍した。
また毛利元就の奉行人制度が形成されるとこれにも参加した。


児玉元茂

児玉元保の息子。
1553年の備後三上郡高の戦いや、
備後三若城攻め、翌年の安芸明石口の戦いで戦功をあげる。


児玉就光

児玉就兼の嫡男。
1540年の郡山城籠城戦や、1542年尼子氏攻めや、
1554年の安芸矢野城攻め、安芸明石口の戦い、
さらには1569年の周防五ヶ村一揆の鎮圧にも参戦した。
1572年の毛利氏掟では奉行のもとで、
政務行った番衆の1人として確認されている。
1580年の備中加茂の小倉城攻めでは、次男・児玉元房を亡くしている。


児玉元良

児玉就忠の嫡男。初名、児玉元実。
1562年に亡き父の後を継いで五奉行に参画すると、
1572年の毛利氏掟でも奉行人の1人として確認されている。
1578年の上月城攻めに参加をする。
さらにこの戦いで羽柴秀吉軍の攻撃により嫡男・児玉元兼が負傷した。


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