×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

安芸桂氏

☆桂氏の起源☆

坂広明の長男・広澄が安芸桂村にいたことから、地名を姓とした。
その後も一族は大繁栄し、桂小五郎や桂太郎もこの一族と見られる。

☆桂氏一族☆

桂広澄

毛利弘元・毛利興元に執権職の地位にあった坂広明の嫡男。
桂村に在住したことから姓を桂と改めた。
1523年に毛利元就の宗家相続の以来をした15人のうちの1人だが、
一族である坂広秀を始めとした武将が毛利元就に反逆したことで、
一族の責任として自刃した。


桂元澄

桂広澄の嫡男。
1523年の毛利元就の宗家相続の際には、
一族の責任をとって桂広澄の後を追って自刃しようとするが、
毛利元就になだめられたといわれ、自刃を思いとどまる。
1554年の毛利元就が陶晴賢との縁をきって攻撃を始めると、
厳島神社の神領であり本拠の桜尾城を預けられる。
その後も、神領を領土として与えられて、
厳島神社の造営修理の造営人足を賦課するなどした。
さらに1561年の大鳥居の造営でも統轄をした。
このように厳島などのなどをはじめとし神領の管理を行った。


桂元忠

桂広澄の次男。
毛利家中でも正路といわれて側近に抜擢される。
児玉就忠と共に給地などの奉行人をつとめる。
1550年の毛利隆元の五奉行の1人に選ばれると、
毛利元就奉行人などの形成にも参画している。
毛利元就と毛利隆元をつなぎ役も行っていた。


桂就延

桂広澄の三男。
井上一族族滅を決行した際に、
井上就兼を郡山城にて殺害する。
また、毛利元就重病との報で毛利輝元が一次退却する時、
鴟ノ巣城を志道元良とともに守将として入城する。

桂保和

桂広澄の四男。平賀広相の家臣。
江田氏の高杉城攻め、福屋隆兼討伐に参加すると、
鞍掛城攻め、周防沿岸の戦いでも活躍する。


桂元親

桂元澄の三男。
防長攻略の際の山代一揆討伐をすると、
毛利隆元から褒め称えられ、長門且山城も攻撃する。
その後、長宗我部氏との対決で奮戦するが、
長宗我部氏の猛攻にあって手を引く。

桂景信

桂元澄の四男。小早川氏家臣。
毛利元就と毛利隆元が高山城へ訪れた際に、
椋梨宣平が小早川家臣代表として、桂景信の私宅で歓迎し、
小早川隆景、平賀広相、熊谷信直らの武将と共に宴を開いた。

桂広繁

桂元澄の五男。
父の桂元澄の所領を相続すると、主に穂田元清の補佐をした。
備中高松城の戦いでは、加茂城を守り、
3000人をこえる軍勢で備中高松城を支えた。

桂就宣

桂元忠の嫡男。
父の桂元忠の役職を引き継ぎ、五奉行を行う。
また毛利輝元元服の際には初献の御酌をつとめる。

桂広景

有田合戦で活躍し感状をもらう。

桂元重

尼子義久降服を認める起請文を送る。
また、立花山城を攻め落とした後に入城して主将となる。

桂元信

防長移封になると、萩城の近くに洞春寺を移すための、
普請奉行となり、13年の月日をかけ完成させる。

桂元将

陶晴賢謀反で、大内氏属城を責めた際の、
吉和山里の一揆で活躍すると、
厳島の戦いでも20人の敵首を獲得し、
鞍掛城攻め、福屋隆兼討伐、富田城攻めでも活躍した。

安芸毛利氏家臣団に戻る   毛利元就万世記に戻る