安芸福原氏

☆福原氏の起源☆

毛利元春の5男広世が大江広元の次男時広を祖とする長井貞広の子孫の養子となり、
内部荘福原の鈴尾城(福原城)に居城して在名を称したのにはじまる。
その嫡孫広俊の女は毛利弘元に嫁ぎ、毛利興元、毛利元就を産んだ。

この後、毛利家に協力的な姿勢を示し、毛利家宿老の地位についた。

☆福原家一族☆

福原広俊

1523年に毛利元就の宗家相続を要請した宿老15人の連署状のうちの1人。
1531年に、家臣団の利害調整を毛利元就に依頼した起請文の筆頭にも署名する。
1540年の郡山篭城戦では鈴尾城(福原城)を守備する。
娘は桂元澄・内藤元康(口羽通良)・和智誠春・天野隆重・杉重良に嫁ぎ、
毛利家に忠誠を尽くし、1557年に死去。

福原元勝

福原広俊の弟。
三吉広隆を援助するために、府野の戦い参戦。

福原貞俊

福原広俊の嫡男。
毛利元就に、正直な人物として信頼されると、
1550年の井上一族族滅作戦直後に毛利家への忠誠を示した規請文の筆頭に署名する。
毛利隆元が死亡すると、吉川元春・小早川隆景とともに、
毛利家の政策に参画をするようになる。
毛利輝元の相談に乗っていただきたいと毛利元就からも頼まれている。
1567年に吉川元春・小早川隆景・口羽通良を加えた4人で
毛利輝元の両国支配を補佐する。
口羽通良と吉川元春が山陰地方に、
福原貞俊と小早川隆景が山陽・瀬戸内地方を担当する。
娘は三吉隆経・平賀広相・熊谷元実に嫁ぐなど、毛利家の発展に貢献した。

福原元正

福原広俊の次子。
吉川元春が新荘に入城する際に、家臣36人の筆頭として入城する。

福原元俊

福原貞俊の嫡男
1588年に豊臣姓を与えられた。
萩藩閥閲録では51歳死去、福原家譜では44歳死去と書いてある。

福原広俊

福原元俊の嫡男
関ヶ原の戦いでは東軍に内通して、
吉川広家とともに毛利家存続のために奮闘した。

福原元頼

福原広俊の弟。
関ヶ原の戦いの当日になると、吉川広家が東軍の陣営にいかせた。

また福原某様の情報で、
また、秀就の代に出頭役、就隆の後見役として徳山へ赴くも、
後に本藩へ差返されたとのことだそうです。

情報提供有難うございますm−−m

福原俊親

富田城の戦いで戦功をあげる。

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