毛利家譜代・近臣の形成

毛利家宗家の直属被官で、常に奉公したり、
城誘(家臣を常に城へこさせる)や、その他の普請(城の修理や家屋、建築)など、
主家の公役を勤めなければいけない義務があった。

しかしこの義務の中で、軍議などの評定に加わり、
主家の方針の決定などに参画したり、代官や奉行になって、
行政、司法の枢要の位置につくことや、毛利氏の運営の実務を把握できる特権もあった。

そんな毛利家譜代には大きく分けて4つの種類に分けられる。

壱、毛利時親が安芸国吉田に下向した際に随従した被官、若党など。
例、飯田氏、粟屋氏、赤川氏、渡辺氏

弐、小庶家や庶家の分家や遠戚が譜代化したもので、後に庶家はほとんど譜代となる。
例、兼重氏、平佐氏、上山氏、光永氏、長屋氏、桂氏、志道氏、口羽氏

参、安芸に下向して間もなく服従した付近の小領主。
例、国司氏、井上氏、児玉氏

四、戦国時代に入ってから、臣従して公役の奉仕を誓約して譜代化した領主。
例、内藤氏、井原氏、中村氏、秋山氏、三田氏、南方氏

上記の譜代の形成は、壱、毛利家庶家、一門の形成でも述べたとおりであり、
室町時代のはじめから形成が見られ、応仁の乱の頃にはかなり整っていった。
戦国時代の成長、飛躍期に入ると、今までの経験などが通用せずに、
毛利元就は経営が任せられるものが1人もいないと言っているが、
毛利隆元の五奉行制や、防長の戦後処理奉行などはすべて譜代に任せている。
毛利輝元の年寄衆や奉行衆の21人が常時本城につとめ、
輪番で執務したのは全てが譜代であり、
使節や城番などの最も重要なのは譜代がやっていたことになり、
毛利家譜代は活躍し、無難ながらも成功を収めたと私的には思う。

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