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☆安芸南方氏☆

南方親定(みなかた ちかさだ)

生没年:?〜?
官位 :出羽守
居城 :安芸国山県郡烏尾城
列伝 :毛利家臣。大内軍が月山富田城を包囲した際、
敵方の河本弥兵衛の館を秋山親吉と共に占拠していたが、
長雨により富田川の水位が増し、尼子軍の集中攻撃を受け危機に陥る。
ただし、この時、元就が自ら手勢を率い、尼子軍を撃退したため、窮地を脱出した。

南方就正(みなかた なりまさ)

生没年:1540〜1599
官位 :宮内少輔・壱岐守
居城 :周防国佐波郡右田ヶ嶽城
列伝 :毛利家家臣。南方家は元々門司家の支流・大積門司家の出身で、
就正の父・元次から毛利興元に仕え、譜代家臣として扱われた。
大内家滅亡後、就正は佐波郡右田ヶ嶽城(山口県防府市)城代に任命される。
これ以降、就正は右田ヶ嶽城主として、山口奉行・市川経好の補佐をする。
(注・この右田ヶ嶽は山口を南から守るための拠点であり、
毛利家の防長支配において、欠かすことの出来ない城である。
この事から、南方就正は元就・輝元から深い信頼を得ていたのだと思われる)
大内輝弘の山口侵攻の時、輝弘敗走の際、これを追いかけ、輝弘の首を上げる。
後に天正九(1581)年9月頃、粟屋元定らと共に、備中忍山相城(現・岡山市)に在番。

(上記、2武将の紹介ともに、防長戦国譚の因幡真親氏に頂きました。)

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