毛利元就就の初陣 〜有田合戦を軍記等から見て〜

当サイトは陰徳太平記をもとに作らさせて頂きます。
ただし、軍勢の数については正確な人数はわかっておりません。
あくまで参考にご覧ください。

さて、はじめの二つは史実にもとずいて書かせて頂きます。

☆毛利元就の初陣 〜有田合戦の背景〜☆

永正12年(1515年)に足利義稙を奉じていた大内義興は
安芸の紛争をなくす為に、安芸分郡守護の武田元繁を京より帰還させた。

しかし武田元繁は大内義興と離反し、反大内氏の旗を上げる。
尼子氏とも協力を得て、ついに己斐氏の己斐城を攻めた。
対する大内義興は己斐城の救援する為に毛利興元が出陣し、
興元は武田側の有田城を攻め落とすと、さらに己斐城の救援に成功した。
有田城はもともと吉川氏の領土であったので、興元は有田城を吉川氏の小田信忠へ返還した。

これで安泰かに思われたが、翌年の永正13年(1516年)8月25日、兄の毛利興元死亡。
兄の毛利興元はわずか24歳で死亡。死因はまたもや酒害とみられている。
これによって兄毛利興元の息子である幼少の幸松丸家督をつぐ。

☆毛利元就の初陣 〜有田合戦〜☆

上記の通りに幼少の幸松丸が家督をついだので、そのすきをついて武田元繁が
永正14年(1517年)の10月3日に武田元繁は有田城への攻撃を開始して落城まで追い込んだ。
10月21日には毛利元就の居城猿掛城近辺で、武田勢が放火を行った。
この後毛利元就は直ちに迎撃し、初陣を飾った。

毛利元就はこの時21歳という遅い初陣である。
さらに普通の戦国武将の初陣は形だけで必ず勝てる戦に参戦し、
父親や後援者が必ず後ろについていた。
しかし、この当時の毛利元就には強大な後援者も父もいなく厳しい初陣となった。
永正14年(1517年)の10月22日に毛利勢は熊谷元直の陣を攻め始める。
熊谷隊は毛利勢におされて、ついには熊谷隊の大将熊谷元直が戦死。
熊谷氏は三入荘の国人領主で武田氏は南北朝時代から緊密な関係だった。
毛利軍はさらに進軍し、武田氏の本陣に迫る。
武田元繁は自ら打って出て井上光政が討ち取った。
この当主の戦死で武田勢は総崩れになり各地に敗走し破れた。
この戦いで毛利元就の名は広く知れ渡るのである。
この戦いは後世に西の桶狭間とも言われている。
(桶狭間より前の戦いなのに西の桶狭間とは・・・。毛利元就があまり知られていない。
もしくは織田信長が知られすぎているからなのかな?・・・。)


上記が史実に基づいた有田合戦です。
ここからはリアルに書くために陰徳太平記を元にして軍勢なども書きますが、
あくまで参考という捕らえ方でお願いします。

☆毛利元就の初陣 〜有田合戦〜 (陰徳太平記版)☆

武田元繁は毛利氏当主の幸松丸が幼いということから叔父の毛利元就を倒せば吉田も落ちると見た。
武田元繁勢は吉川氏の領の宮庄に侵入して交戦。
有田城を攻めて、落城寸前まで追い込む。
10月22日、1000騎を多冶比に入れたが、毛利元就は300騎で打ってでて善戦した。
毛利勢は有田城表で1500騎で出陣した。
まず、毛利勢は中井出の熊谷元直の陣地を攻めた。
熊谷隊は500騎で陣地も強固だったが、毛利勢はさくを破ってなだれ込み熊谷隊を劣勢になる。
しかし元直は退かず、討ち取られてしまう。
この時、武田元繁の救援隊が送れたことを元繁は悔やんだと言う。
毛利勢は熊谷元直を倒した事によって勢いずき武田元繁の本陣に迫った。
この時、有田城の城主は小田信忠と言う武将であった。(因みによくわかっていないという。)
これに対して武田元繁は有田城の包囲700騎を品川信定や伴繁清の両将に任せる。
小田信忠も自ら300勢を率いて出陣していった為、両者の攻防が続く。
また、自らは4800騎を5体に分けて毛利軍を包囲する鶴翼の戦法である。
この陣形で小勢の毛利軍が武田軍によって壊滅するのは時間の問題だった。
 だが武田元繁は、退却する毛利軍に追い討ちをかけるため、
又打川を飛び越えようとしたところを、毛利勢に討ち取られる。


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