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屋代島衆 長崎氏史

☆長崎氏の始祖☆

鎌倉時代のはじめ(12世紀末)に毛利元就の先祖でもあり、
鎌倉時代の功臣(守護・地頭制など)の大江広元が島末荘地頭職なったことから、
大江広元の代官として(大江広元は鎌倉在住)藤原親康が下向した。
この藤原親康が惣公文として治めると共に藤原氏が地名から名を改めて長崎氏とした。
その長崎という地名の由来は現在は島になっている新宮島が
昔は陸続きの岬になっていたことからとする考えががあるが定かではない。
とにかく長崎氏はこの長崎をとって長崎氏となったようだ。
これが後の屋代島衆として活躍する長崎氏の始まりとなる。


☆大内下で村上氏と対決!・長崎重親☆

当時の当主・長崎重親は大内持世からの安堵状をもらっています。
その内容は長崎氏の知行は屋代島島末の知行半分持っていたとある。
竈戸関の争いでは、村上義弘の時代から村上一族が進出してきて、
海関をつくって通航料をとりはじめたいた為、
大内氏には支障になるので長崎重親に命じて攻略させた時の争いとみられる。
この戦いに長崎重親は勝って大内持世から感状をもらっているが、
後に村上氏は村上義有が居住していることからのちに入ったとみられる。


☆大内下で小弐氏と対決!・長崎勝親☆

長崎重親の子・長崎盛親は水軍の将として活躍するが、
長崎盛親の子・長崎勝親はさらに水軍の将としての活躍が目立つ。
1501年には馬岳城を大友氏と小弐氏が攻めてきたため、
大内義興はこれを救う時に長崎勝親も出陣して手柄を立てている。
また長崎勝親は敵が攻め込むと、大内義興に報告をすると、
船に乗りこんで合戦をして感状を受けている。
この敵は1509年の小弐資元の武将が蜂起したときとみられる。


☆各地に転戦!・長崎元康☆

長崎勝親の子・長崎安親は病身であったため、
元康を養子に迎えて後を取らせているが、元康の父はわかっていない。
1523年から厳島で敵船を討ちはらうなど、海上取締りの戦いが多くなる。
1540年には大内氏が伊予の忽那島を攻めるとき兵を出して感状をもらっている。
1542年の出雲赤穴氏の要害攻めではかなりの働きをしている。
しかし1543年に尼子氏との戦いで戦死する。


☆毛利氏傘下に・長崎房親☆

長崎元康が戦死すると、長崎安親には養子の長崎元康だけだはなく、
実子の子・長崎房親がいたため、まだ幼い長崎元康の息子の神代をつとめた。
1551年に大内義隆が陶隆房に攻められて自刃すると、
毛利氏に仕えて沓屋房法と沓屋景頼の3人で御船手組頭に任じられた。


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