毛利元就物語 其の九 (1556年〜1557年)

☆周防の郷村共同体☆

陶晴賢を倒した毛利元就は周防に侵攻するのだが、
ここで苦労したのが長い間、
大内氏についた為できていた郷村共同体である。

ようやく周防東部の一揆鎮圧がおわると、
吉川元春は石見に出撃し、
尼子晴久の南下を牽制するとともに、
吉見正頼が大内義長を攻撃できるように応援させた。

ここで周防東部の岩国を拠点とした
毛利元就の次の目標は富田若山城であった。
しかし周防東部を制圧するのに手間取った
毛利元就は郷村を味方に付けることにした。
それでも岩国〜富田若山城の間では
一揆が起こりそうな気配があった為、
郷村ごとに足軽を入れ、威嚇と懐柔で味方にするよう
赤川就秀に郷村鎮圧策を授けている。


☆山崎興盛の須々万沼城☆

そんな中、富田若山城と共に
毛利元就勢に立ちはだかったのが須々万沼城だった。
この須々万沼城は城は低いのに
三方が沼沢で沼城形式の要害であったうえに、
城主・山崎興盛に加えて大内義長の援軍、
そして先に述べた郷村の一揆が応援していた。
この須々万沼城を小早川隆景が攻めるが失敗した為、
毛利隆元の軍勢が攻めるがこれも失敗してしまった。
これ以上留まると退路を断たれる恐れがあったため
毛利元就が出動しようやく陥落させた。
この須々万沼城が陥落すると、富田若山城も開城し降服した。
この富田若山城は
陶晴賢の嫡子・陶長房が治めていた大規模な城であったが、
すでに杉氏との戦いによって死去していた為に
陶氏の遺臣がまもっていた。


☆山口突入!大内義長の最期☆

こうして毛利元就勢は軍勢を進め防府に本営をおいた。
山口突入の直前、
大内義長を奉じていた高峰城の内藤隆世はすでに城にはおらず、
長門に入って且山城を最後の拠点としていた。

毛利元就は福原貞俊をはじめとする部隊で
攻めさせて且山城を陥落させた。
ここで内藤隆世は自刃し、
長福寺において大内義長が自刃して大内氏は滅亡した。
大友氏では大内義長を援助する動きがあったにもかかわらず、
毛利水軍が防長の海岸を封鎖したため実現できなかった。
ここでは備後の土豪・小寺元武が大友義鎮と外交をして、
防長制圧の大友氏の干渉を排除することを成功させ、
外交手腕を発揮する。
こうして毛利元就は防長制圧を完成させたのである。


☆毛利元就蟄居!?☆

こうして防長を制圧した毛利元就は
側近・桂元忠を通じて志道広良に、
政治に関与するのをやめて、
いっさい手を引いて蟄居すると毛利隆元に伝えさせた。
しかし、このときの毛利家の状態というのは、
未だに芸備国衆が独立状態にあり、
毛利隆元はこの芸備国衆に直接成敗ができなかったのである。
そんな中、安芸国衆と申し合わせ、
国衆の僕従でも直接成敗が加えられるようにした。

さらに問題があり、以前に定めた奉行衆の反りが合わない。
さらに大領国の統治をする人材がいない上に、
給地の増加だけをのぞむ問題も出た。
この状態で、毛利元就が蟄居するというのには
毛利隆元としては非常に驚き、
引退を思いとどまるように頼むとともに、
吉川元春・小早川隆景と共に相談した。
そして、引退するのであれば自分自身も幸鶴丸(後の輝元)に
家督を譲るとまでいい、
さらには自分が死ねば毛利元就が
蟄居できなくなるとまで述べている。
こうして4ヶ月後、毛利元就はもう一度当主としての
責任を負うと覚悟を示すのである。


☆毛利両川体制確立に向けて☆

毛利隆元は自分に足りないところを
吉川元春・小早川隆景に補佐して欲しいと望んだ。
しかし毛利隆元とこの2人との仲は必ずしも良いとは言えず、
2人が毛利隆元をのけものにし、話しかけることもできない状態で、
自分を見限っていると見受けられると腹が立つと毛利元就に訴えている。
これに対して毛利元就は、
無口な吉川元春はまだしも小早川隆景までもがよそよそしいのに、
自分も腹が立つといい同意を示している。
そして、吉川・小早川でも内心は毛利家の親類であるという
気持ちを強く持てと言っている。
ここから毛利元就は毛利隆元の訴えを受け入れ、
吉川元春・小早川隆景を、
再び毛利家の運営の中枢に参画させようと決意をするのである。


☆三子の教訓状☆

防長制圧後におきた大内氏残党の一揆鎮圧中に、
毛利元就は三子へ教訓状を与えた。
これは毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に同意を得て、
毛利両川体制を宣言したものである。
その教訓状は14ヶ条からなり、第1条〜第7条までは三子の協力要請で、
第8条では三子と同母の娘が嫁いだ宍戸氏を三子と同様に扱うこととし、
第9条では毛利元就の幼少の息子の処遇についてにふれ、
第10条と第11条ではまだ隠居ができない自分の気持ちを述べて、
第12条と第13条では自分の念仏や厳島信仰を述べ、
第14条を結びとしている。
この時に、以前までは養家の繁栄につとめて、
それぞれの家中の評判をおとさないようといっていた毛利元就が、

毛利の名字を永続とすることが第1であるとし、
依然とは大きく発言が異なっている。
さらに毛利元就は、
本家の毛利家が堅固であればそれぞれの家中を統制できるが、

毛利家が弱くなれば人の心持も変わり、
三人とも滅亡するとも述べている。
そして、毛利元就はこのようなことは
今は亡き妙玖(法号)が言ってくれたに違いなく、
弔いも届も三子協力にしくものはないといい、
記憶をよみがえらせている。


☆毛利両川体制の基礎☆

毛利元就の出した教訓状は直ちに具体化されていったが、
具体化されるにつれて問題も出てきた為、
毛利隆元は自ら自制して進めていった。
中でも一番の問題は毛利家から養子に出ていった
吉川家・小早川家の当主が、
再び毛利氏の運営に参画するとなると、
毛利隆元の権限を犯すことになるということである。
これに遠慮した吉川元春・小早川隆景であったが、
あえて毛利隆元がこれを容認した。
そして吉川元春・小早川隆景に対してだけ、
毛利家臣と封建的契約を結ぶことを許可した。
ただし毛利隆元の意にそう向いた場合は
処断できる余地が残されている。
また毛利両川体制は、山陰地方は吉川氏、
山陽地方は小早川氏と分担地域も決まっている。

毛利隆元にとって一番重要なことは
領国内の国衆を直接麾下に引きつけることだったが、
毛利氏勢力に入る前から小早川氏との関係があり
毛利隆元が密接で接触できない国衆がいた。

これを毛利隆元は小早川隆景に対して
自分に相談するようにしてほしいと言い、
かなりの自重をしたことによって毛利両川体制の基礎が完成した。


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