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毛利元就物語 其の八 (1554年〜1555年)

☆陶晴賢に謀反!☆

1554年、ついに陶氏討伐を決意した毛利元就は
味方の安芸国人領主に決行を告げた。
そして毛利勢は、何と1日で
佐東銀山城・己斐城・桜尾城・草津城の4城と厳島をてに入れる。
それは陶晴賢にとって、
毛利元就の大きな裏切りであり憤激にたえなかった。
一方の毛利氏側も当初は裏切りとしているが、
後に防芸引分(対等)と称している。
これから、以前まで毛利元就が陶氏に義理立て、
届だてを果たしたいといったのは表面で、
実際はかなりの準備をしていたことがわかるのである。


☆毛利直属水軍衆の構成☆

1541年に毛利元就は安芸武田氏遺領である
広島湾頭・佐東川下流域をとってから、
わずか13年で積極的な水軍の活用や、
内海の船持商人と接触をしている。
その川の内水軍の構成は、
安芸武田氏の旧水軍の福井氏・山県氏らを中心とした地下警固で、
さらに毛利家譜代の飯田氏・宍戸氏と
小早川水軍の乃美元信・因島村上氏の飯田弥五郎、
そして統帥者を毛利家譜代の児玉就方が任命されている。
これは毛利元就が海賊とは違った直属水軍をもとうとしていたのである。
こうしてこの水軍は次の厳島の戦いでは活躍することになる。


広島湾海域確保戦!☆

話を戻して、
先に陶勢から奪い取った草津城を川の内警護衆の児玉就方とすると、
佐東銀山城の出入口として、広島湾統御の基地とした。
さらに桜尾城には桂元澄を置いて、
陶勢との最前線の守備に当たらせた。
また仁保島城には香川光景などを中心に、
警護船を持っていた東林坊などを当たらせた。
この仁保島城は白井氏がいたが、
陶勢の警護衆として出動していたため乗っ取ったのである。
この時、毛利勢は能美島も押さえたのだが、
これを矢野の野間氏と白井氏が協力して攻めた。
この時は、毛利元就・隆元が自ら出陣したために、
矢野城を落として野間氏を降服させた。
ところが、降服を許したものの後方の不安をなくすために
この野間氏を全滅させている。
さらには蒲刈島の多賀谷氏は降服させたが、
倉橋島の多賀谷氏を攻め滅ぼすなどしている。


☆決戦の地 厳島とは?☆

毛利元就は広島湾海域の押さえとして、
厳島に宮ノ城を築城し始める。
この厳島は戦略上のうえ、
とても重要な位置であったということと、
厳島神社の門前町が瀬戸内海の港湾都市としての
経済上の理由もあったため、
陶晴賢はとくに経済上の理由の方を
非常に目をつけていたようだ。
陶晴賢が江良房栄を奉行として厳島を支配していたのは
非常に短い時間であったが、
その間に厳島の商業振興についての7ヵ条出したり、
厳島の人々の保護をしたりと、
港湾都市としてのいっそうの繁栄を目指している。
この厳島は毛利元就にとっても欲しいものであり、
社領の寄進から神社に接近し、
なかでも社家第一の権勢家の棚守房顕と師壇関係となっており、
仲が良かったために、
毛利元就は棚守房顕から陶晴賢が
毛利氏を討伐しようと企んでいる情報や、
厳島の振興活動・毛利氏にとられたのちも狙っていることを得たのである。
そして毛利元就は厳島を決戦場にし、
陶晴賢勢を壊滅させようとしたのである。



(いざ、決戦の地 厳島へ!)

☆尼子氏の内部分裂?新宮党族滅☆

毛利元就は陶晴賢との戦いを決意するに当たって、
尼子氏の背後からの攻撃は備後の山内隆通を仲間にしたといえ、
非常に脅威があった。
しかしこの時、尼子内部では亀裂があったのである。
尼子氏の尼子国久(いわいる新宮党)の嫡子・尼子誠久は、
岳父の多賀氏が謀反を起こして
所領を没収された土地をもらったため所領が膨大となった。
そこで尼子国久は新宮家の家督を尼子誠久から子息に譲らせた。
しかし尼子国久は、孫よりも末子・与四郎を偏愛したため、
家督を与四郎に与えようとした。
そこでこの孫は尼子国久が毛利氏と内通していると密告した。
これによって、普段から横暴のことも理由に挙げ、
先制攻撃をして尼子国久父子を殺害した。
一部の資料には、毛利元就が謀略をめぐらして、
尼子晴久に毛利氏と新宮党が内通しているという
偽の証拠をつかませたとも言われている。
自滅・謀略のどちらにしろ尼子氏は勢力を弱め、
さらに毛利氏の背後の不安が無くなった。


毛利元就の数多くの謀略編

☆江良房栄 抹殺!☆

江良房栄は陶晴賢が大内義隆を滅亡させた後、
毛利元就の行動を監視をしていた。
その毛利元就の実力を知ると、
陶氏討伐に立ち上がった毛利元就に降服したが、
毛利氏から言われた300貫の給地を拒否し、
さらに加増を要求していた。
その態度に不安を感じた毛利元就は江良房栄が内応したと
密告させて陶晴賢に殺された。
毛利元就を知っていた江良房栄を殺害した陶晴賢の損失は大きかった。


☆桂元澄 内応作戦☆

この時最前線にいた桜尾城の桂元澄に、
陶氏に偽の誓紙を送り内通すると送らせた。
さらに、毛利元就と陶晴賢が厳島で交戦すれば
吉田郡山城を攻めるとも送らせた。
自分の父の桂広澄は自分の同族の者が
毛利元就の家督相続を阻止しようと、
毛利元就抹殺を企てた為、責任を取って自刃したことで
毛利氏に遺恨があるとも送った。


このような毛利元就は数多く調略・謀略をおこなった結果、
陶晴賢はいつしか厳島の占領への道へすすんでいくことになる。
また以上の他にも伝えられているがそれは以後書くことにする。

☆厳島合戦前・折敷畑の戦い☆

そしてついに毛利元就と陶晴賢の2人が初めて戦うことになる。
それは1554年の明石口の戦いだが、
これは各自部隊が独自に交戦するにとどまった。
本格的に戦闘がはじまるのは折敷畑の戦いで、

陶晴賢麾下の宮川房長率いる
3000人の兵隊を先鋒として折敷畑山に着陣した。

先に述べた陶氏と吉見氏の戦争は講和されていた為、
毛利元就勢は陶勢の本体だと信じて全力を挙げて迎撃した。
この時の大将・宮川房長は戦死し、
陶勢の全軍は壊滅し気勢をくじかれた。
陶晴賢は約20000人の兵を率いて岩国に進軍し、
安芸へ進撃する機会をうかがった。

しかし毛利元就はすでに宮ノ城を築城し、
背後の海上勢力を排除していた。
さらに陶晴賢を調略で厳島へと誘き寄せるなど、
すべては毛利元就に思うようにいっていた。

残るは海上戦をするにはには水軍力が
必要という大きな問題があったのだった。


☆決戦 厳島の戦い!(前編)☆

1555年に陶晴賢勢の水軍武将・白井賢胤が
宮ノ城攻撃をおこなうと、
三浦房清が広島湾海域の偵察をすると
厳島・仁保島と攻撃をして陸戦も行っている。

この戦いは偵察のようだが、
これによって自信をつけた陶晴賢勢は、
屋代島衆・宇賀島衆を中心とする
500艘の警護船に乗って厳島に上陸した。
これには弘中隆兼が毛利元就の思う壺という反対をしたが、
臆病者として意見を退けた。

そして陶晴賢勢は早速宮ノ城を攻撃すると、
安芸侵攻の準備を始めていた。
これに対して、毛利元就側は宍戸隆家に
800人で吉田郡山城の留守を任せると、
備後の山内首藤氏と連携して尼子晴久勢の南下に備えた。
そして毛利・吉川・小早川の3家に、
天野・熊谷・平賀・阿曽沼などの安芸国衆を加えた
4000人が厳島に向かった。

☆毛利元就の水軍力☆

当時の陶晴賢は毛利元就の水軍をあまくみていたところがあった。
これは屋代島衆だけで毛利水軍を上回っていたということが1つあった。
それに能島・来島村上氏は
毛利勢に味方するなど考えていなかったようである。
毛利元就の水軍は先に述べた川の内警護衆、
村上氏にならぶほどの海上勢力を持っている小早川警護衆、
そして小早川警護衆と縁のある因島村上氏が確実となっていた。

そこで因島村上氏の縁で、能島・来島村上氏の救援を懇請しており、
さらに屋代島衆にも多くの武将が毛利氏からの誘われていた。


☆能島・来島村上氏に懇請☆

陶晴賢勢は宮ノ城をすでに陥落に近い状況まで
毛利元就勢を追い詰めた。
そこで本来ならば能島・来島村上氏を説得して
共に同道する予定であったのを、
すぐさま小早川警護衆は戻るように毛利元就は命じている。

ここで小早川警護衆は宮ノ城の救援に向かい、
乃美宗勝に説得を任せた。
この乃美宗勝は能島村上氏の当主・村上武吉と関係があったが、
村上武吉はすべてを来島村上氏の当主・村上通康の判断に任せたので、
乃美宗勝は村上通康に説得する為、来島へと向かった。
そんな中、宮ノ城はよりいっそう危ない状態に陥ったため、
熊谷信直が宮ノ城に強行して入場するなど士気をあげていた。
しかし宮ノ城の城の堀はすべてといっていいほど
埋め立てられ陥落寸前となった。

そんな絶体絶命の中、小早川警護衆が到着し、
そしてついに能島・来島村上氏の200〜300艘が
毛利元就の来援に来たのである。
乃美宗勝は説得において、
1日も船留めさせる手間はとらせないといって、
海賊の性格をわきまえた依頼を申し込んだ点でも
来島通康の心を動かしたといえる。
(能島・来島村上氏は参戦しなかったという意見があるが、
これは厳島神社の棚守房顕、
吉川家家臣の二宮俊実が参戦したと記しており、
来島村上氏への恩賞と見られるものもあるため私は参加と判断しました。)


☆決戦 厳島の戦い(後編)☆

毛利元就勢の厳島渡海は日没後の暴風雨の中で行われた。
毛利元就が率いる本隊は川の内警護衆に乗って上陸すると、
吉川元春をはじめ、陶晴賢率いる本陣の背後に押しのぼって陣をしいた。
そして、小早川警護衆の能島・村上氏の警護衆も加わり、
筑前の秋月・宗像の水軍と偽り、
陶晴賢勢の大船団を押し分けて上陸した。
そしてその夜明け、開戦をしらせる毛利元就が音頭をとると、
本隊と小早川隊と宮ノ城の兵が
いっせいに陶晴賢勢の本陣をめがけて突進した。
当時の陶軍の一部は安芸侵攻の準備をしており、
狭い土地の密集、不完全な陣地などの理由もあり大混乱となった。
そして多少の反撃もあったが、収集がつかずに総崩れとなった。
しかし敗走しようにも船は毛利元就の水軍に撃破されてしまったため、
敗走できずについに陶晴賢は西岸と南岸の間の山中で自刃して果てた。
そしてこの戦いは毛利元就の思う壺だと反対した主張し、
陶晴賢に臆病者扱いされた弘中隆兼の敗死によって終わりを告げた。
陶晴賢は水軍の認識不足によって敗れたといっても
過言ではないかもしれない。
くしくも尼子晴久・大内義隆と同じく臆病者扱いをした陶晴賢も、
この厳島の戦いに失敗し、命を落とした。


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