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毛利元就物語 其の七 (1551年〜1554年)

☆重臣・陶隆房の陰謀☆

大内氏は領国が大きいうえに、
明・朝鮮との貿易にも独占的におこなっていた。
そのため富力があったが、大内義隆が文事に没頭していたため、
武断派とよばれる陶隆房らには反感をかっていた。
この当時、大内氏の重臣で勢力をもっていた陶・内藤・杉の三家のうち、
杉重矩は陶隆房に謀反心があると
文治派の相良武任を通じて大内義隆に訴えていたが、
その後、杉重矩は反転して陶隆房と結ぶ。
これによって、陶・内藤・杉の三家の連合ができ大内義隆を降ろして、
大内義隆の子息の大内義尊を擁し、
大内政治を奪おうという陰謀をまとめた。
これは毛利氏にも加勢をもとめており、
早くから毛利氏は陶氏にかかわっていたと思われる。
一方、大内義隆は恒例の参拝をとりやめるなどの警戒をして、
毛利元就に弘中隆兼を使者としてもし
山口にランが起これば来援するよう依頼しているが、
弘中隆兼も陶隆房に内応していたと思われるので、
全く無意味だったと思われる。
またこれ以降陶隆房は出仕せず、不穏な状態が続くのである。


陶隆房 大内義隆に反旗!☆

陶隆房の反逆は大内義隆を隠退させて
その子息の大内義尊を取り立てることから、
父子ともに抹殺して、大内義隆の姉の子であり
大友義鎮の異母弟の大友晴英を迎立する方針になった。
毛利氏がこれに賛成したかはわからないが、
毛利隆元は岳父であったことから、
主君を殺す行為は、必ずその報いを受けると思っていたようだ。
しかし毛利氏は陶氏と申し合わせて、
陶氏は厳島と桜尾城・毛利氏は佐東銀山城を攻めている。
この後に陶勢は大内義隆父子を大寧寺に追い詰め自刃させた。
これによって大友晴英は大内義長・陶隆房は陶晴賢と改名した。


☆芸備両国の支配へ・平賀氏編☆

そしてこの後の毛利氏は、
大内義長の新しい大内氏の麾下に入る。
しかし新大内氏の麾下に入ったとはいえ、
毛利氏としては独立を目指しており、
そのためには芸備領国を独自の勢力圏にするのが急務だった。
毛利氏は大内義隆を支持する平賀隆保の頭崎城を攻略する。
平賀氏では以前に平賀隆宗が病死した後を、
弟の平賀広相に継がせたいと希望したが、
大内義隆がこの相続を干渉し、小早川正平の従兄弟にあたる亀寿丸を
平賀隆保と名乗らせて平賀氏を継がせた。
この経緯には、小早川常平が尼子氏に通じた為自殺し、
その子の兄弟三人が捕らえられていた、
その三人の兄弟のうちの一人が平賀隆保で才気と芸能に秀で、
大内義隆に寵愛されていたのである。
この平賀隆保は管田宣真がたてこもっていた
槌山城に入ったが攻略されて自刃している。
そういった経緯がありようやく平賀広相は
平賀氏の当主として継ぐことができた。
そして、小早川隆景と平賀広相で兄弟の契約を結ばせる。
これは領分が接していたために闘争を
起こしがちだったための契約で一揆契約も結んでいる。
さらに毛利隆元も加わり、三家で尽力し合うという同盟が結ばれている。
これによって、天野氏・平賀氏が加わり、
安芸中央部の押さえが万全となった。


☆芸備領国の支配へ・阿曽沼氏編☆

鳥籠山城の阿曽沼隆郷も大内義隆との関係があったらしく
大内義隆を支持していた。
そのため毛利氏は熊谷信直・桂元澄を攻めさせると同時に、
北から久芳賢直を攻めさせる。
阿曽沼氏は最初は抗戦するものの、家中から態度変更が出て、
当主の阿曽沼隆郷を隠退させ、
その弟の阿曽沼広秀を当主に立てて降伏を申し出た。
そのため、阿曽沼氏は存続を許されて
一部の所領は没収されるが本領は安堵された。
この後、阿曽沼隆郷は
阿曽沼氏宿老によって殺されたという言い伝えもある。
その後の阿曽沼氏には毛利氏譜代家臣が送り込まれ、
毛利氏麾下となるのである。


☆尼子晴久との備後争奪戦へ!☆

新大内氏が大内義隆を殺害した後始末に追われているなか、
尼子氏の勢力は活気を帯びて、
将軍の足利義輝から中国地方の安定勢力として
8カ国の守護を任ぜられている。
そして守護に任ぜられた備後に進出してくる形勢となったので、
新大内氏に連絡をとり、
毛利氏は備後東部にある
志川滝川城の宮光音を攻めて備中に逃走させた。
この戦いでは、毛利氏以外にも新大内氏の芸備国人領主も参戦したが、
すべての戦果を報告する軍忠状を毛利氏に差出させ、
そこから新大内氏に報告した。
これから毛利氏は芸備の国人領主を
直接傘下におさめていったことがよくわかる。
しかも、備後の湯浅元宗は軍忠状をだすのが
遅かったことから責められている。
この後、湯浅氏は人質を出して、毛利氏に臣従している。


尼子晴久との備後争奪戦!☆

1553年に尼子晴久は主力の部隊を率いて備後に南下してくる。
さらに安芸の毛利氏の本拠をつこうとも考えており、
本願寺門徒にも協力を求めており、
尼子氏の入国の際には加勢してほしいとも言っている。
尼子氏の有力な備後の味方は山内隆通だったが、
これに江良隆連が裏切りで尼子氏にはしる。
これと同時期に、
毛利氏に三吉致高・三吉隆亮父子は参会し忠誠を誓っている。
寝返った江良隆連は旗返城に本拠があり、
毛利氏勢は芸備領国衆を引き連れて江田氏勢力の江田を占領する。
しかし、桶喜城城主(本名不詳)が毛利氏から尼子氏へと転じたために、
毛利氏の泉城が尼子勢の攻撃の表面にさらわれ、
尼子両軍が萩川の瀬で交戦する。
また旗返城は出雲衆が城番となっていたため堅固だったので、
毛利勢は支城の高杉城を攻略する。

そうなると旗返城もたちまち陥落し、
尼子晴久も出雲へ引き揚げていった。
この合戦では、江良房栄が検使として派遣されているが、
毛利元就の主導でおこなわれた。
先のとおり毛利元就の主導でおこなわれていたため、
自分の部下に守らせたいと陶晴賢に希望した。
しかし陶晴賢はこれを拒否し、自分の部下である江良房栄を
城番としてかえって毛利氏を監視させた。
これが陶氏討伐の直接要因となったと考えられている。


☆陶氏討伐への苦悩☆

尼子勢が出雲へ引揚げていってすぐに、
山内隆通と庶家の多賀山通続が毛利氏へ帰順した。
これは山内氏と因縁のある宍戸隆家と口羽通良が交渉したため、
毛利元就の傘下に入った。
備北最大の雄族が尼子氏から毛利氏へいったことで情勢は変化していった。
出雲勢を防ぐ防波堤となり、大いなる収穫だったためである。
そしてこの時期に、吉見正頼は陶晴賢に大内義隆の復讐戦をとなえた。
これは陶氏と吉見氏が父祖の代から対立抗争する間柄であったことと、
大内義隆の姉婿ともなっていて吉見正頼は僧籍に入っていたのに
好意によって相続できたなど、
たくさんの恩をうけており、大内義隆を追想し、陶晴賢を強烈に憎んでいた。
そんな陶氏・吉見氏の交戦は開始されてからどんどん激化していった。
そして毛利氏には、吉見氏は大内義隆の讐を討つために
立ち上がってほしいの申し入れに対して、
陶晴賢は大内義長とともに出陣するから盟約通りに
毛利元就自身に加勢し参陣するようと要請している。
毛利氏としては陶氏との盟約を続けて新大内氏の麾下にとどまるか、
この際吉見氏に呼応して陶氏と対決して
独立の道を選ぶかの大きな運命の分かれ道にさしかかった。
この態度決定には毛利元就と毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三子は勿論、
年寄衆の桂元澄・福原貞俊・口羽通良も入って入念の熟議が重ねられている。
この熟議の共通の認識は、陶氏討伐に立ち上がり、
それをしそこなれば新大内氏・尼子氏の双方から狙撃されるというものだった。
これはつまり、毛利家及び吉川・小早川家の滅亡を意味する。
この熟議の中で毛利元就は一貫して、
陶氏に義理立て、届だてを果たしたいといっている。
何を考えていたのかは定かではないが、表面の姿勢はこれを崩さなかった。
一方、毛利隆元は当主となっている責任から
毛利家の権勢を自らが崩壊させることを恐れたため、
この機器をどうしたら切り抜けられるかと悩み、兄弟・年寄衆をはじめ、
信頼する僧侶の策雲玄竜・竺雲恵心に書状をだすなど苦心している。
さらには自分への問いかけも行い、
そして毛利氏を陶氏との対決へともっていくのである。
ここで毛利隆元は桂元澄に、
陶晴賢は主君を裏切ったから天罰を受けその身を滅ぼすからと、
毛利氏も巻添えにはされたくないとして陶氏との対決を決意している。
毛利隆元が畏れるのは、
毛利元就自身が加勢をすれば陶晴賢は喜ぶだろうが、
吉見氏が滅亡すれば心が驕り、
毛利元就を抑留して討果たそうと悪心を起こすことである。
そこで毛利元就に変わって自分がいけば、
毛利氏の当主がまかりくだったと言分が立つという。
しかし毛利隆元の本心は、
いずれ陶晴賢は毛利氏を滅ぼすであろうから運命を決したいとしていた。
一方、陶氏では毛利元就の安全を保証すると
家中のものを人質として吉田へ送るといってきた。
これは毛利氏が動かないため、
その麾下の安芸国人領主の大半が出動を見合わせている。
そのため陶晴賢は、毛利氏とは別行動をとるように促す書状を送り続け、
ついには毛利氏から離反させる調略の使僧を送り込んだが、
平賀氏はこの僧を毛利氏に突き出し運命を共にするとして覚悟を示した。
ここに最後の決意を固める時期が到来し、陶氏討伐への覚悟が決まった。


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