毛利元就物語 其の六 (1544年〜1550年)


☆尼子氏VS大内氏☆

大内義隆の遠征失敗でなんとか退却した毛利元就は、
まず近隣諸国と盟約を固めなおした。
この混乱に乗じて、安芸武田氏の一部が反乱を起こすが、
これを毛利元就の力で鎮定している。
さらに尼子氏と結んだ山名理興が安芸へ侵攻し、
翌年の1544年には尼子氏が南下して備後で毛利勢と合戦している。
さらに尼子晴久が自ら兵を率いて進軍してきた事から、
三吉氏の協力のもとにこれを撃退している。
また、沼田小早川氏の高山城を包囲攻撃するなど
尼子晴久の逆襲がはじまっていた。


☆大内氏と共に反撃へ☆

尼子氏の攻撃が激化する中、
大内・毛利氏の反撃は神辺城を攻略することが必要だった。
しかしこの攻撃は、
1543年〜1549年という長い年月をかけて攻略する事になる。

この間に、たくさんのことが起こっているので
まずはこちらから見ることにする。


☆隆景、竹原小早川家の後嗣に☆

1541年に佐東銀山城攻めに出陣していた
竹原小早川家の小早川興景が病死した。
竹原小早川家は本家沼田小早川家の庶流にあたるが、
ほとんど独立状態にあり国人領主として大内氏側についていた。
大内義隆は、小早川興景の病死直後から
毛利元就の子息を竹原小早川家の跡取りにしようと考える。
これは備後の神辺城攻めの先鋒として、
竹原小早川家を出陣させようと見られる。
こうして、1544年に本拠木村城に入り相続することになる。


☆正室・妙玖死去☆

1545年に吉川国経の娘で、正室の妙玖に先立たれる。
この妙玖は男子3人・女子2人の5人の子供達がいた。
また妙玖というのは、毛利元就の子息にあてた時の手紙で呼ばれた名で、
法名の成室妙玖から取られているものと思われる。


☆毛利元就、隠居☆

1546年に毛利元就は嫡男の毛利隆元に家督を譲る。
しかしこれは毛利隆元を当主にたてることによって、
家中の活気を生み出そうとしたものであり、実権を手放す気はなかった。

これ以降毛利元就は大殿と呼ばれ、
毛利隆元は若殿といわれて毛利氏を代表している。


☆元春、吉川家へ☆

毛利元就の次男である元春は当初、
毛利元就の庶弟・北就勝の後を継がせようとしていたが、
1546年なると、元春を吉川氏に相続させようという気運が生じていた。
1543年に大内氏を裏切って尼子氏の富田月山城に逃げた事から
大内義隆は毛利元就にその所領を与えた。
しかし、毛利元就は大内氏にとりなして、この話は無くなった。
また吉川家当主の吉川興経は軍事に優れた武将で、
行政は吉川経世や森脇祐有などがしていた。

しかし吉川経世や森脇祐有などから実権を奪うと、
行政を寵臣の大塩氏に任せてしまった為、
吉川経世や森脇祐有などの反発を受け、
大塩氏を討ち取ると与谷城に立てこもった。
このような結果になってしまい、吉川興経は手が出せなくなってしまった。
そこで吉川経世や森脇祐有などが吉川興経を隠退させ、
毛利氏から元春を養継嗣にむかえるという動きが出た。
ここで、毛利元就は厳しい条件を出す為、
両者とも承諾が成立するのに時間がかかったが、
ようやく吉川興経が幽界するという形で隠居におさまり一段落ついた。
また吉川元春はまだ吉川氏領に入っていなかったが、
備後神辺城攻めに余裕が無かった為、
吉川氏の当主として、吉川氏の家臣を率いて出陣している。


☆備後神辺城攻略☆

備後神辺城の山名理興は城が堅固のうえ、
守護の伝統というものが存在しており、
さらに備後国の南を統一しようという野望もあり、
出雲に尼子勢というものでとても簡単には落ちなかった。
これに対して大内勢は竹原小早川家・因島村上氏の海上勢力を動員し、
備後の沿岸部から攻めていった。
ここでは吉川元春同様、
小早川隆景も竹原小早川家を継いでまもなく出陣している。

毛利元就は大内氏と参会して作戦を打ち合わしている。
ここで毛利元就は備後で敵勢力の切り崩しを行うべきだと主張している。
この神辺城攻めは大内・毛利勢が総攻撃を行うが陥落することができず、
翌年の1549年まで続くことになる。
しかし、この長き戦略も孤立化すると、平賀隆宗が全てを引き受ける。
結局、平賀隆宗は陣中に病死するが、
平賀勢の遺族が備後神辺城を陥落させた。
備後神辺城城主の山名理興は出雲に逃れるが、
尼子氏には冷たく接される。
その後の山名理興は毛利氏に降り、
1555年に備後神辺城に戻ったが翌年死去。

☆毛利元就、山口へ訪問☆

1549年に備後制圧が1段落つくと、
毛利元就は吉川元春・小早川隆景を連れて山口へ訪問した。
これは毛利元就から隆元への相続、
元春の吉川家相続、隆景の竹原小早川家の相続の承認の御礼だった。

しかし実際は、大内義隆と武断派の亀裂が
どこまで生じているかを見るというのが狙いと思われる。
ここで、毛利隆元は義隆屋形の座中での
作法の肝心さを小早川隆景に教えている。
公家化した大内義隆の作法に気を使っていたことが察せられる。
この時、大内義隆は毛利氏の事を歓迎していたようで、
27歳で未だに妻がいなかった毛利隆元の妻に内藤興盛の娘とした。
一方、大内義隆と武断派の亀裂を見にきた毛利元就達に陶隆房は急接近する。
陶隆房は吉川元春に「しばしば参会でき嬉しく思う。
これからもお願いしたい」などと書状を送っている。
一方、反陶隆房側では毛利氏は陶隆房が陰謀相談の為に呼び出したと噂した。
しかし、陶隆房は老若男女問わず味方につけて
大内氏の政治を変えようというしていた。


☆毛利両川体制へ☆

吉川家を相続した吉川元春はまだ吉川家領に入っていなかったが、
吉川家家臣の知行替を慎重に行い、
毛利家譜代の家臣を36人随従させて小倉山城に入城させている。
さらに、前当主の吉川興経が生存していれば不穏な動きが多いと考え、
吉川興経が服従の起請文を出しているにもかかわらず、
子供の千法師を殺害した。
一方、竹原小早川家の養子に入った小早川隆景は、
大内氏の遠征に従軍した小早川正平が討死したため、
嫡子の又鶴丸が跡を継いだ。
しかし、又鶴丸は盲目になったうえに、
尼子氏への内通の疑いをかけられるなどの不幸が続いた。
この為に、乃美隆興らは備後出撃の功があった
小早川隆景を又鶴丸の妹に娶わせ養子に迎え、
両小早川氏は合体して毛利氏の後盾を得ようとする動きが見られた。

この意見は沼田小早川家の血脈を守ろうとする田坂全慶らの反対があったが、
小早川隆景に継がせている。
又鶴丸は、自ら仏門に入ったが、田坂全慶らは討伐されて滅亡している。


☆井上一族族滅へ 家中の引き締め ☆

毛利元就は武功者が多い井上一族の中で、
主命に従わない惣領の井上元兼を中心とする30余人の殺害を決行する。
井上一族の所領を合わせると、膨大なものになり、
通行税なども持っていたことから凄い経済力であった。
井上一族の殺害決行の理由としては
譜代家臣としての義務を負わない事が主で、
この事を、西条代官の弘中隆兼を通じて大内義隆にも先に報告をしている。

かくして、井上一族の30余人は殺害されるが、
行いの悪い者以外の井上氏は生き残っている。
この殺害から7日後には、
福原貞俊以下238人が今後とも主家の命令に従う事を誓っている。
また、毛利隆元の下に5人奉行として、
譜代出身の赤川元保・国司元相・粟屋元親と、毛利元就の近習の
桂元忠・児玉就忠の5人で家中の盛り立てをはかっていた。


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