毛利元就物語 其の五 (1536年〜1543年)

☆尼子氏の反撃☆

1536年に尼子氏は態勢を立て直し、
山内氏の甲山城に進駐すると、山内直通を当主から降ろし、
山内直通の外孫(山内隆通)に家督を相続させ、支配下においた。
一方、平賀氏の内部分裂が起こると、
頭崎城に拠った平賀興貞を白山城の平賀弘保が攻撃しする。
これに、大内氏と毛利元就は平賀弘保に加勢するが、
尼子氏が平賀興貞を支援し、毛利氏の城が奪取された。


☆尼子経久から尼子晴久へ☆

1537年に、尼子経久から嫡孫の尼子晴久に家督が譲られた。
尼子晴久に家督が譲られると、石見大森銀山なども奪回する。
毛利元就は、もしも郡山城が攻められた場合に、
忠誠を誓わないと救援が望めないのではないかと言うところから、
嫡男の毛利隆元を人質として出している。
この時に毛利隆元は大内義隆から隆の字を与えられ、隆元と名乗る。
大内義隆は文化生活が目立ち、戦国大名には見えない生活をしていた。


☆郡山城篭城戦への背景☆

尼子氏は近畿地方にも出陣し、
因幡、美作、備前、播磨、備中、備後、出雲、
伯耆、石見、安芸半国等をおさえていた。
これだけ抑えていたのだが、
東の毛利元就の存在は領土を脅かすものがあったので
毛利元就を攻める事になった。
このとき、石見と備後はまだ完全に征服ができていなく
危険だと尼子久幸などは主張する。
しかし、尼子久幸の主張は臆病野州として退かれた。
その退かれた理由としては、
山名忠勝が大内・毛利方の杉原理興に乗っ取られてしまったということだった。
安芸武田氏も力を失っているために、
安芸の毛利氏を攻めれば
安芸・備後・石見の国人領主は尼子方につくと踏んだのである。

☆郡山城篭城戦へ☆

1540年に尼子晴久の叔父の尼子国久を中心とする
新宮党の部隊を備後から3000人侵攻させる。
この尼子勢は、三吉隆信の領に入り、志和地八幡山城に進軍する。
ここから、宍戸元源の支城である祝屋城を攻撃するが、
深瀬隆兼の奮闘でこれを撃退している。
撃退した毛利元就勢はさらに平賀興貞の頭崎城を攻撃し、
背後の敵を攻略した。
これを見た尼子氏は安芸武田氏の強化や、
友田興藤と村上海賊衆に投降を呼びかけていた。


☆尼子晴久、ついに郡山城攻め☆

富田月山城を出発した尼子晴久は、
毛利勢の反撃にあった備後側をさけて、石見側を通っていった。
郡山城から四`のところにある、多冶比の風越山に本陣を構えた。
一方、これに対して毛利元就は2400人の兵と、
農民・商人・職人をあわせた8000人が郡山城に立てこもったという。
また宍戸氏、天野氏、福原氏、
熊谷氏、香川氏を自城に配置させ、戦闘状態に入った。
さらに尼子晴久軍は進軍し、青山三塚山に本陣を移す。
尼子勢の湯原宗綱は、小早川興景と鋒杉元相の軍勢に遭遇し、
湯原宗綱をはじめとした武将が討死した。
こうして出端をくじかれてしまった尼子勢は、
新宮党を中心とする武将が郡山城に押し寄せる。
しかし、毛利元就勢は毛利元就が自ら戦陣を切り、
敵将の三沢為幸をはじめとして武将を討死した。
その後も毛利勢と尼子勢の戦いは続いているが、
尼子勢の総攻撃は見られなかった。


☆大内氏援軍到着☆

大内勢は陶隆房(陶晴賢)を総大将として、
10000人の軍勢を率いて吉田に到着した。

翌年の1541年になると、毛利元就勢は宮崎・尾長の陣を攻め、
先陣の高尾勢と二陣の黒正勢を敗走させた。
しかし後陣の吉川興経勢は防戦し、勝敗は決しなかった。
一方、大内勢の援軍として到着した、
陶隆房勢は尼子勢の背後から本陣を襲撃し混乱に陥れている。
混乱に落ちた尼子勢であったが、
臆病野州といわれた尼子久幸が先頭で奮闘し討死した。
しかし尼子久幸の活躍で、
陶勢の深野氏・宮川氏といった有力被官が討ち取られ、引き分けとなった。


☆尼子晴久勢総退却☆

尼子勢はこれ以上戦っても勝算がないということや、
味方の国人領主の離反を恐れたことから、雪の中退却した。

一方、厳島神主家の友田興藤は、
大内氏と尼子氏と行ったり来たりして態度がわかっていなかったが、
尼子勢総退却の1日前に伊予の村上氏の
船30艘を呼び寄せ厳島を占領した。
尼子氏の味方をした友田興藤は大内義隆勢に桜尾城を攻略され、
友田興藤は自刃した。

これによって、軍勢を率いて北上していた安芸武田氏の武田信実は撤退した。
残った銀山城の安芸武田氏の譜代衆を、
毛利元就が宍戸氏・天野氏・熊谷氏・香川氏の協力を得て攻略した。
この戦いで、毛利元就は佐東川から広島湾の周辺を所領として得ることとなり、
ここに、毛利元就直属の水軍衆の育成がはじまることになる。


☆尼子経久の死☆

尼子晴久勢が退却してから、
2ヶ月という短い間に大内氏側に寝返る武将がでた。
主に、安芸・石見・備後・備中のほとんどの武将である。
さらに尼子経久が84歳で死亡すると、
いっそう尼子氏から大内氏に寝返るものが多くなった。
備後の三吉氏・山内氏・多賀山氏・宮氏、石見の福屋氏・本城氏、
出雲の三沢氏・三刀屋氏・河津氏・宍道氏・古志氏といった武将が、
遠征時に先鋒を勤めることを申し入れている。
大内氏一色となった、中国地方であった。


☆大内義隆勢遠征へ☆

1542年に大内義隆は15000人で出発し、
安芸・石見の軍を加えて出雲へ向かう。
しかし、尼子氏側の赤穴氏の瀬戸山城に阻まれてしまい、
半年も立ち往生してしまう。

翌年の1543年の作戦を決める軍儀では、
毛利元就は尼子氏は未だに勢力があり、
尼子氏の内部から崩していき攻撃をするという意見を出したが、
この作戦は用いられずに、一挙に本営を攻めることになる。
この時、毛利元就は各地の戦いで奮戦するが、
成果が上がらずじまいになってしまう。
これで、大内氏に寝返った吉川・山名・三沢・本城・山内といった武将が
尼子氏の月山富田城に逃げ込んでしまう。

先に述べた尼子氏とは対照的に、大内氏は兵路と退路を断たれてしまう。
ついに総退却を決断し、
大内義隆は宍道を通り石見から山口へ帰還している。
しかし、養子の大内晴持は小舟から大船に乗る途中に溺死してしまう。
また小早川正平は出雲で敵に遭遇し、討ち取られてしまう。
このときの毛利元就は出雲で敵と遭遇するも戦い逃れ、
石見国では大江坂七曲で尼子勢が攻めてきたところを、
渡辺通が毛利元就の身代わりになった。
これによって毛利元就はかなりの損失をうけた。


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