毛利元就物語 其の四 (1530年〜1535年)

☆大内勢、北九州へ出兵☆

大内氏では当主の大内義興が1528年に死亡した為、
家督は文人として有名な大内義隆が22歳で継いだ。
しかし大内義隆は文人として暮らしたのではなく、
始めのうちは軍事に力を入れている。
北九州の伝統的な勢力の小弐資元・小弐冬尚が勢力回復をはかり、
さらに大友義鑑も大内氏と同盟を結んでいたが、
これ以上の北九州への拡大を恐れていた為に小弐氏と手を結ぶ。
芸備進行中であった大内氏であったが、
大内義興は少しの軍勢を安芸において北九州へ進行する。
陶興房を大将とした大内勢は、
1536年に肥前多久城に拠る小弐資元を攻め滅ぼすまで続く。
この間、南下する尼子氏を防ぐ毛利元就は頼みの大内勢がいないため、
尼子氏ともうまくやっていかなくてはならなくなる。


☆兄弟契約☆

大内義興がなくなり、後継ぎの大内義隆が北九州に出兵中のため、
毛利元就は尼子氏対策におわれることになる。
大内氏に仕えていたが、年頭挨拶を行うと同時に、
吉川氏と通じて尼子氏と接近した。
1531年に毛利元就は尼子晴久に兄弟契約を結びたいとし、了承を得ている。
毛利元就の苦悩が伺える一面である。


☆尼子氏内乱☆

毛利元就が尼子氏に気をつかっている中、尼子氏の中で内乱が発生する。
1518年に尼子経久の嫡男の尼子政久が戦死してしまい、
わずか5歳の晴久が後を継ぐことになる。
ところが尼子経久の三男塩冶興久が甥に仕えるのを好まず、
処遇の不足を訴えて反抗をするようになる。
富田城に近い大原郡内の地を要求する塩冶興久であったが、
亀井安綱が退けたとして亀井安綱の身柄を要求し、1532年に反乱をおこす。
塩冶興久は富田城攻めをするにあたって佐陀城に麾下の兵をおいたが、
これを尼子経久勢が攻撃した。
佐陀城を救援する事が出来なかった塩冶興久は、
末次城を攻めるがこれも失敗してしまい勢力を失っていく。
妻の実家である甲山城主の山内直通を頼って落ちのびる。
尼子経久は塩冶興久の身柄を差し出すように圧力をかけるが、
山内直通は塩冶興久をかくまったり、大内氏・毛利氏にも通じて対抗をする。
一方、尼子氏は大内氏に使者をおくり、
塩冶興久を返すように山内氏に呼びかけて欲しいと頼んでいる。
大内氏から相談をうけた毛利元就は、
塩冶興久を尼子経久に返すよう力を添えると返答している。
その後、塩冶興久は自刃し、尼子氏の元へ返された。


☆毛利元就の基盤作り☆

安芸の宍戸氏は郡山城からわずか四`にある五竜城が本拠であった。
また、宍戸元源は毛利氏に迫るほどの勢いがあった。

しかし毛利弘元が宍戸氏とはうまくやるようにと言う遺言を残しておきながらも、
兄の毛利興元の頃は交戦を繰り返していた。
毛利元就はこのこともあって、高橋氏の旧領を宍戸氏に割譲する。
1533年に宍戸氏と親交を深めていき、
1534年には年頭の挨拶として自ら五竜城を訪れる。
そして毛利元就の二女と宍戸元源の嫡孫の宍戸隆家の結婚の約束も決まる。
これによって、宍戸氏との関係は親密なものになり、
その後は毛利一族として活躍すると、また宍戸隆家の母は、
有力国人領主の山内直通の娘であったことから、山内氏とも仲がよくなる。
山内直通はこの当時塩冶興久をかくまっていたことから、
尼子氏とも関係が良くなく毛利氏に接近した。
これによって、毛利元就は備北にまで勢力が及ぶ事になる。
さらに安芸武田氏に仕えていた熊谷氏は、
武田光和の妾となっていた熊谷信直の妹が離縁した事。
熊谷信直が武田光和の部下の山中成祐を討った事、
武田光和が熊谷氏の本拠高松城を攻撃した事があり毛利元就の味方となった。
その後は、熊谷元直の娘が毛利元就の次男吉川元春に嫁ぐとさらに強化した。
さらに香川光景も安芸武田氏から離反し、安芸武田氏は崩壊寸前にあった。
しかし、尼子氏が大内氏を防ぐ為に存続を強めた為に、存続を続ける。
1532年に、備後の旧族の宮氏の本拠亀寿山城を攻略すると、
1534年には、三吉氏の城と多賀山氏の城を攻略し、備後国を攻略している。
こうして、毛利元就の名声は着々と増えていった。
そして、大内義隆の推挙もあって、
従五位下に叙任され、そして右馬頭に任じられた。
しかし、尼子氏が黙っているのは内部が混乱していた為、
すっかり元通りになった尼子氏は動き始める。


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