毛利元就物語其の三 (1524年〜1529年)

☆相合元綱の反乱☆

毛利元就が家督を相続してからすぐのこと。
尼子経久は1度は毛利元就の家督相続を認めたが、
すでに嫡男・尼子政久が戦死しており、前途を悲観していた。
またそこに名将・毛利元就が出てくることを非常に恐れていた。
そこで毛利元就の異母弟の相合元綱を立てて、
尼子氏に忠誠を誓わせようと考えたのである。
そこで尼子氏の重臣・亀井秀綱は、
密かに坂広秀・渡辺勝などの毛利家の重臣と気脈を通じた。
しかしこの陰謀は発覚し、毛利元就は相合元綱を殺害した。

またこの相合元綱の話は陰徳太平記が詳しくて、
毛利元就は相合元綱が陰謀を企てていることを察知すると、
安泰のためにも殺害しようとしたが、油断の隙が無かった。
そこで毛利元就は、召し使いの座頭の中の勝一を呼び、
相合元綱の船山城へ琵琶を演奏させると、
7、8曲の平家物語を語り、郎党が眠り始めたところで、
外に合図を送り、相合元綱を殺害したと伝えられる。
また坂氏については襲って自殺させたが、
渡辺勝には暫くそのままにさせたが、
雲州に使者として使わせると、難波谷に投げ込んだという。
渡辺勝は断絶した後に、当時幼少で渡辺勝の嫡男・虎市が、
備後の山内氏に助けられ、渡辺通として再興した。
また坂広秀の場合は複雑で、
後に志道広良の次男・志道元貞が坂氏を再興させてはいるが、
重臣の志道広良と桂元澄などが一族で問題があった。
またこの問題を受けて桂広澄は自ら自刃したため、
その子の桂元澄・桂元忠も一族滅亡の覚悟を決めるが、
毛利元就の説得で、再び仕え活躍する事になる。


☆佐東銀山城死守戦☆

1524年(大永4年)に大内義隆は陶興房とともに銀山城を攻めた。
当時の銀山城は有田合戦で毛利元就が武田元繁を破ったが、
嫡男・武田光和が継ぎ、勢力は落としたものの意地があった。
そして安芸武田氏が尼子氏の力を借りようとし、
厳島神社の禰宜(宮司の補佐)・友田興藤は、
安芸武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自らが出陣し、桜尾城を包囲し、
そして息子の大内義隆と副将・陶興房は、銀山城を攻撃させた。
また毛利元就は未だに尼子氏方の武将だったので、
銀山城死守するようにと尼子経久に言われている。
救援部隊の尼子氏直属の亀井・牛尾氏が劣勢に陥いると、
毛利元就は軍議に加わり夜襲を提案する。
この時代の夜襲はあまりつかわれていなく、
敵は意表をつかれて大内勢の包囲を解く活躍をおさめている。
しかし、桜尾城の友田興房は開城降伏し、
大内氏の安芸国進出の拠点が固められた。

☆再び大内氏の下へ!☆

1525年(大永5年)に再び大内氏の麾下に入った毛利元就は、
阿曽沼・野間・天野氏の攻撃に際し、和平降伏を勧めていた。
これは昨年の相合元綱の尼子氏の対応からと見られる。
陶興房が率いる大内勢は放火をするが、
阿曽沼・野間氏ともに城に立てこもってしまって出てこない。
この後、阿曽沼・野間氏は毛利元就を通じて許されたようだ。
さらに進んだ大内勢は、天野興定の米山城を包囲攻撃するが、
これも毛利元就の仲介で許される。
さらに毛利元就はこのとき天野興定と一揆契約をし、
志道広良と天野興定は兄弟の契約をしている。
この後天野氏は毛利氏の与力として活躍し、家臣の列にも入る。


☆敵対する阿曽沼氏と白井氏☆

一旦降伏した阿曽沼氏だったが、
反転し安芸武田氏方となり鳥籠山城に拠った。
府中城・仁保島城ともに白井一族が拠っており、
広島湾東岸部攻略に
大内氏はうまく進んでなかった。
そこで、友好関係にあった大友氏から援軍として
兵が1万が来援したのを機会にし、広島湾東岸部を攻めた。
阿曽沼氏は、重臣野村杢允の腹を切らせて開城降伏する。
1526年(大永6年)には府中白井氏も大友軍により開城し降伏する。
しかし、この大友軍が自国に不穏な噂があったため帰ってしまうと、
阿曽沼氏・白井氏はまたもや安芸武田氏方へ戻ってしまう。
大内義興は陶興房を主将とする大内勢を遣わし
広島湾東岸部の制圧に乗り出す。
この戦いには、毛利元就・天野氏などの武将も加わっている。
この後に阿曽沼氏は降伏し、鳥籠山城には阿曽沼氏の離反を
なくすために、大内氏の部将が入っている。
大内氏は府中城の白井氏を攻撃するが、
武田氏の支援により容易には落ちなかった。
大内氏はなかなか落ちない為に、切り崩し作戦を実行。
仁保島白井氏の白井縫殿助、白井彦七郎に、
領地を与えるという約束で寝返らせた。
大内氏は仁保島白井氏を麾下にしたことによって、
安芸武田氏の海上勢力を崩したのである。
しかし府中城は白井備中守の忠誠や、
安芸武田氏の援助もあって、容易にはおちなかった。


☆大内勢、備後国へ侵攻☆

さらに大内勢は備後国に進出し、
先鋒として毛利元就が活躍し、尼子勢と合戦をしこれを下している。
この合戦で尼子氏に服属していた南天山城の和智豊郷は、
山内直通と毛利元就の仲介により大内氏方に転じている。
こうして大内義興の芸備奪回作戦は成功をおさめるのだが、
1528年(享禄1年)に大内義興が重病にかかってしまう。
勢力を増やした大内氏であったが、このことで帰国してしまう。
そして、大内義興は死亡し、大内義隆が後を継ぐ。
(結局、佐東銀山城が陥落するのは1541年で、
陥落させたのは毛利元就である。)

高橋氏族滅作戦☆

先程の、毛利元就物語 其の二の続きで、
高橋久光亡き後、高橋興光が継ぐことになった。
ところが、家臣団からは反対があり分裂してしまった。
その当時、実力者だったのが高橋盛光。
高橋盛光は高橋清光の息子となっていますが、
いまいち高橋清光の出自もはっきりしていないが、
高橋久光の嫡男・高橋元光の弟と伝えられる。
ただ高橋盛光は高橋久光によって、
嫡廃された高橋元光の息子(?)とも考えられる。
(↑は私的に見解ですのでご注意ください。)
ここで高橋興光と高橋盛光は争っていたといい、
高橋盛光は高橋興光の父・高橋弘厚に育てられたという。
また、高橋盛光の妹が高橋興光の妻になったともいい、
仲が良かったが、家督相続で仲互いしてしまった。
高橋盛光は毛利元就から高橋興光を討ち取れば、
高橋家の当主として認めるといわれた為、
1529年(享禄2年)に高橋興光の軍勢を待ち伏せて、
伏兵を置いてこれに勝ち、高橋興光は自刃した。
その後、高橋盛光も毛利元就の手によって殺された。
この高橋家の領地を宍戸氏、出羽氏といった武将に一部を与え、
宍戸氏とは和平緩和に、出羽祐盛には毛利氏の与力となる。


実録 毛利元就に戻る   毛利元就万世記に戻る