毛利元就物語 其の二 (1518年〜1523年)

☆もう1人の後見人☆

毛利家の当主は毛利元就の兄・毛利興元が死亡した後は、
毛利興元の嫡男が2歳という若さで継いだということは先程述べた。
このため、叔父に当たる毛利元就が後見人として活躍することになるが、
この後見人にはもう1人おり、幸松丸の母方の実家の高橋久光である。
母方の出自には諸説あるが、高橋久光は外祖父かと私的には思う。
その高橋氏の居城は本城出羽ににあり、所領は3000貫と表高はあるが、
実高は「近隣を攻め取り12000貫、兵力は3歳こうしの毛ほど集まる高橋氏。」
といわれるほどで、高橋城、松尾城など安芸国にも勢力があった。
そしてその高橋久光はその後も着実に勢力を伸ばしており、
毛利家には嫡男・高橋元光、次男・高橋弘厚などに嫁いだ娘がいた。
その為、毛利元就の発言権より高橋久光の発言権の方が強く、
毛利元就の意見は重要視されていなかったようである。
しかし1515年(永正12年)に嫡男の高橋元光が討ち死にすると、
高橋久光は次男・高橋弘厚の息子・高橋興光に高橋家を継がせる。
結果としてはこれが家中の内紛を引き起こしてしまいうと、
さらに1521年(大永1年)に高橋久光は備後三吉氏の青屋城を攻めて、
落城させたが、その油断から城主の青屋友梅勢に討ち取られてしまった。
この高橋久光の弔い合戦をしたのは毛利元就であり、
高橋興光にはまだ家臣を動かす器量がなかったようである。
この出来事により毛利元就の後見人としての発言力は高くなった。
(その後の高橋氏については毛利元就物語 其の三 に掲載。)

☆毛利元就結婚☆

吉川国経の娘で、本名は伝わっていない。
後年、元就が息子達に送った手紙等では法名の妙玖で呼んでいる。
この妙玖と毛利元就が結婚した時期ははっきりとしていないが、

ただ1523(大永3年)年にに長男の毛利隆元が誕生している事から、
それ以前で有田合戦以降ではないかと思われる。
(毛利隆元より前に姉がいるのだが年号はわかっていない。)


☆反大内氏の山県氏の壬生城攻略☆

1522年(大永2年)に大内氏の麾下であった毛利家は、
反大内で安芸武田氏、尼子氏と見られる壬生城主の山県氏を攻撃した。
毛利元就は壬生城主の一族の山県元照に毛利氏の被官となり、
本領の他にも新しく所領を給与するという条件で調略を行った。
すると、城主の山県少輔五郎と山県玄蕃充に離反し、
壬生城は陥落し、約束通りに山県元照に所領は給与されている。
またこの戦いで、大内義興は毛利元就に感状を送っているが、
それとは別にこの時、初めて毛利元就が自ら感状を、
活躍した三戸元次に送り、忠節に励むよう申し付けている。
先程述べたとおり、高橋久光がこの前年に死亡しているため、
毛利元就は発言力が多くなり自ら感状を出したとも私的には思う。
また数多くの調略を行った毛利元就の初めての調略でもある。
しかし、背後からは尼子経久が迫ってきていた。

↑の山県氏については交流掲示板にて議題になり、
山県有朋の先祖である可能性が高いという話や、
甲斐の山県昌景の安芸出身説、
吉川氏家臣、尼子氏家臣の山県氏など、
さらには山本勘助の周防出身説にまで話は及びました。
この壬生城の戦いについては史料が少なく、
管理人の知識も薄かったゆえ、議論有難うございました。


☆大内氏から尼子氏へ☆

毛利元就が大内氏から尼子氏へいった経緯はわかっていないが、
1522年(大永2年)に尼子経久の強引な要求に屈したと見られる。
またその為、毛利元就は大内氏に従っていた坂氏に腹を切らせ、
その首を尼子経久に差し出したという。
この坂氏についてもはっきりとは分かっていないが、
背景には毛利氏の執権職をしたことのある坂広時が、
尼子氏に属す事を強硬に反対したことと見られている。
実際、尼子経久が軍勢を引き連れて多冶比近くまで来て強要したので、
止む終えないとし、自ら坂城を攻め城主に腹を切らせたといえる。

☆西条鏡山城攻めの背景☆


大内義興はついに10年間と言う長い歳月の間、京都に滞在をとりやめ、
尼子氏の攻勢に対処するために京都滞在を打ち切ったのだった。
まず大内義興は中国地方の統一を進める前に、
防長両国の支配と北九州の支配を確実にしておきたかっため、
重臣の陶興房を1522年(大永2年)に安芸国に派遣した。、
その陶興房は尼子氏と結ぶ武田氏の諸城に攻撃を加えると、
尼子方に落ちていた西条鏡山城を奪回し、蔵田房信を守将としておいた。
しかし、肥前の小田覚也と龍造寺家和が大内氏の筑前に乱入したことで、
大内義興勢は一旦、引き上げることになる。
1223年(大永3年)に厳島神主家の庶家友田興藤が、
武田光和の援助を得て、大内氏の桜尾城をとり、神主となって自立した。
勿論、この武田氏と友田氏のうらには、尼子氏が存在したのである。
そして夏になると尼子経久が自ら大軍を率いて安芸に進出したのである。


☆西条鏡山城攻め☆

尼子経久は北吉田に陣を構えると、安芸豪族達に出陣を要請し、
毛利家にも当主の幸松丸を亀井秀綱とともに先鋒でという要求が来た。
毛利元就は共に出陣していた吉川家との姻戚関係から、
出陣要請を断ることができなかった。(毛利と吉川と武田と尼子の繋がり)
結局、毛利元就は9歳という幼さの幸松丸と共に出陣した。
また周辺の国人領主もほとんどが尼子氏の麾下に入っている。
戦いは毛利元就は吉川国経と共に鏡山城の山麓に兵を進めて、
民家に火を放って、城を攻め上げるが、
城主の蔵田房信が奮戦したことから、西条鏡山城は陥落しなかった。
そこで毛利元就は、蔵田房信の叔父にあたる蔵田直信に注目し、
蔵田房信を討てば所領を安堵するというと蔵田直信が内通した。
そのこともあって蔵田房信は防戦するが西条鏡山城は陥落した。
蔵田房信は降服し、自らの切腹にかわり妻子の助命を願うと、
尼子経久も了承して約束の通り蔵田房信は切腹した。
ところが、蔵田直信が約束の通り、西条鏡山城の安堵を願うと、
尼子経久は利のために寝返るとは不埒として蔵田直信は殺された。
また一方で蔵田房信の子孫はその後、毛利氏の家臣となっている。
毛利元就にとっては後味の悪い結果となってしまった。
またこの西条鏡山城攻めの後の毛利氏では、
何と、幸松丸が病気にかかり、9歳で早世してしまう。
蔵田房信の時に、首実検で首が瞳を動かして、
3度の歯を噛み鳴らしたと事で幸松丸は気絶し、亡くなったという。
大内氏と尼子氏が安芸一国を激しく争い始める中、
狭間にいた当主のいない毛利家は家督相続の大きな問題を抱えた。

☆家督相続問題☆

先に述べたとおり、毛利元就の兄・毛利興元についで、
毛利興元の嫡男・毛利幸松丸も早世し、
幸松丸の息子はいなかったことから、跡継ぎを誰にするかでもめた。

毛利興元・幸松丸時代からの執権・志道広良は、
毛利元就を家督に継がせようとしていた。
福原広俊と連絡をとる一方で、若手の譜代衆とも密談していた。
毛利氏にとって早急にしないと、尼子氏の思うつぼになるからだった。
そして志道広良の尽力があって、幸松丸の死亡から4日目に、
志道広良は宿老代表として渡辺勝・井上元兼両名を使者とし、
多冶比猿掛城で毛利元就から家督相続の承認を取り付けた。
さらに6日後には、宿老の15人が連署して、
毛利元就が相続した事をよろこび、吉田郡山城へ入城を、
お願いしたいという書状を国司有相と井上有景に送らせた。

以下は署名した毛利氏宿老15名である (署名順)

毛利氏宿老15名
福原広俊
中村元明
坂広秀
渡辺勝
粟屋元秀
赤川元助
井上就在
井上元盛
赤川就秀
飯田元親
井上元貞
井上元吉
井上元兼
桂元澄 
志道広良

吉田郡山城入城日時は満願寺住職の栄秀法印が決めた。
「毛利の家 鷲の羽をつぐ 脇柱」と発句を書いたのが27歳。
また、密かに粟屋元秀を京都にいかせ、将軍・足利義晴から、
継目安堵の「御内緒」をもらい、将軍家の権威をつかった。
家中一致という書状をもって、尼子経久のところに持っていくと、
尼子経久も人目置いて、早い対応に承認の返事をした。
これにて、毛利氏は大きな問題を解決したかにみられた。


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