毛利元就物語 其の十一 (1564年〜1571年)

☆毛利両川体制の確立へ☆

毛利元就は毛利隆元が死去した時に67歳であったが、
孫の毛利輝元は11歳であったため、
少なくとも20歳まで後見をすることを覚悟した。
この時に毛利両川体制の強化を図っていたが、
毛利家宿老達にも不満があったため、
福原貞俊と口羽通良をこの体制に入れるなどの心配りをした。
さらに毛利輝元には毛利元就の4男以降の
6人の武将との年齢が近かったため、
毛利軍の主力の戦力となって働くようになる。


☆尼子氏へ攻撃激化☆

毛利隆元が死去してから2ヶ月がたったのち白鹿城を陥落させ、
さらに弓ヶ浜の戦いにも勝って、
富田月山城への海路の兵糧を阻止した。
しかし毛利元就は一気に攻めようとはせずに
持久戦をとって包囲網を縮めていった。
そんな中、1565年に毛利輝元は元服した。
元服した後、毛利勢の富田月山城の総攻撃を行い、
毛利輝元は初陣した。
その毛利勢は富田城麓に近づくが敵の闘志があり、
総退却を命じて持久戦をした。
ところが毛利元就は病になり、危篤状態にまで陥ってしまうが、
京都からきた曲直瀬道三の診療をうけて、状態は快方へ向かう。
しかしこの病気以降、
毛利元就の元気はなくなって所労を気にするようになる。

☆富田城陥落、尼子家滅亡へ!☆

1566年に富田月山城は城から脱出する武将が多く出た為、
ついに陥落となった。

毛利元就は吉川元春・小早川隆景ら家中の反対を押し切って、
城主の尼子義久・尼子倫久・尼子秀久の3兄弟を
安芸に下向して生命を保証した。
これは尼子義久を助けたことによって、芸雲和談の破棄のお詫びともいえる。
こうして尼子氏は滅亡を迎えたのである。


☆伊予出兵!河野氏援助☆

1567年の1年間はこれといった戦争無く、
兵を休めて体制を整えることとなった。
そして毛利両川体制は強化される時期となり
毛利元就も後見をさらに続ける。
そして1567年の冬、
大友氏との対決が近くなっていたが伊予に出兵をすることになる。

これは伊予の河野氏から救援を頼まれたもので、
宇都宮豊綱が土佐の一条氏とその家臣の長宗我部氏と結んだからである。
河野氏の河野通宣には宍戸隆家の娘が嫁いでいて、
河野氏は毛利元就の援助を得てやっと宇都宮氏に対抗できていた。
この伊予の出兵は小早川隆景の勢力増大と見えるが、
毛利元就自身は河野氏の家臣・来島氏が
厳島の戦いで来援してくれたお礼としている。
そしてこの戦いは、吉川元春・小早川隆景によって
宇都宮豊綱の大洲城を陥落させ、
西園寺氏も毛利氏に和を求めた結果、大友氏の牽制ともなった。
こうして毛利元就は四国にも勢力が及ぶことになる。


☆大友宗麟の脅威☆

毛利元就と大友宗麟の間では芸豊和談が成立していたが、
豊前・筑前の国人領主が毛利元就に心をよせて、
高橋鑑種や立花鑑載まで大友家をそむいた為、
大友宗麟は立花城を攻めた。
さらに豊前の毛利方の城を攻めると長野氏が毛利氏からそむいた為、
救援が急がれた。
そのため、吉川元春・小早川隆景を先鋒として出動させると、
毛利元就も毛利輝元とともに長府に本営をすすめ、立花城の争奪戦をした。
しかし1568年に大友宗麟勢は
立花城を陥落させて、立花鑑載は自刃させた。
立花城が大友宗麟に陥落させられたことによって、
毛利勢はこれを包囲して、救援軍が入れないように
土塁や堀などの工事を進めて、立花城を陥落させた。

ところが大友軍の救援は退却せずに、毛利勢は北九州にとめられてしまう。
すると大友氏は反対勢力を作って毛利包囲網を形成する。


☆毛利氏包囲網☆

尼子家の牢人であった山中幸盛(鹿之助)と立原久綱は、
尼子家新宮党の尼子誠久の遺児・尼子勝久を立てて出雲に侵入した。
この尼子勝久勢は織田信長の援助をうけると大友宗麟ともつながっていた。

さらに大友宗麟は浦上宗景や能島村上氏ともつながっていた。
また備前の神辺城でも藤井皓玄が一揆を起こして占領した。
この反乱は1週間で終わりを告げるが、背後には大友宗麟がいたと見られる。
さらには大友家にいた大内輝弘が大友宗麟の援助を得て反乱をした。
この大内輝弘は大内義興の兄・高弘の子息と見られ、
大内輝弘は長府の毛利元就・毛利輝元の
本営の背後をつくなど脅かしている。
そのため大友軍と戦っている部隊をまわそうとしたが困難な為、
立花城に乃美宗勝など1部の部隊を置くだけで退却した。
その後に、毛利軍は全軍退却して北九州から撤退した。


☆毛利氏包囲網 其の弐☆

北九州から撤退した毛利元就勢はこの後すぐに大内輝弘を鎮定した。
ところが尼子勝久は手強く、新山城に本拠を置くと末治城に土塁を構築した。
そして富田月山城の天野隆重を狙おうとしたが堅く守っていた為、
包囲して陥落させようとし、米原綱寛は尼子方に寝返るなどした。
そのため毛利元就は総大将の毛利輝元を吉川元春・小早川隆景が補佐して、
出雲へ出動して激戦を繰り返して富田月山城へ入城することができた。
この結果、尼子氏の牢人の乱も
峠を越えたと見た毛利元就は戦勝を褒め称えた。


☆毛利元就の最期☆

出雲に出陣していた毛利輝元は毛利元就が大患にかかったと聞くと、
小早川隆景とともに出雲を吉川元春に任せて帰還する。
この病気は、開放に向かって和歌を詠むほどの毛利元就であったが、
病状は悪化して1571年に吉田郡山城にて75歳で死去した。
西では大友氏・東には宇喜多・浦上・さらには織田信長がいる中、
毛利元就は人生の幕を下ろしたのである。


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