毛利元就物語 其の十 (1558年〜1563年)

☆石見出兵の背景☆

1556年の防長出征と平行して石見にも出兵していた為、
大森銀山を手に入れていた。
その為、生産量が急増していた大森銀山から
財源をたくさんとることができた。
この大森銀山はかねてから大内氏と尼子氏が争っており、
凄く重要性があったので、
尼子晴久は奪回を目指して本城常光を石見に侵入させた。

また、石見では小笠原長雄ただ1人が
尼子方にとどまっていたため連絡を取らせた。

そして小笠原長雄は毛利元就の
大森銀山のルートを遮断した為に、尼子方へ再び渡った。

こうして、1558年から
毛利元就と尼子晴久の大森銀山をかけての戦いが始まった。


☆三村氏救援と御内書☆

大森銀山奪回へ小笠原長雄を討って
尼子晴久を倒す覚悟を決めていたが、
備中の三村家親と、
篠原長房勢の援助を受けた穂田為資と争いが起きた。
このとき毛利元就は
まず備中から攻めるべきとして穂田氏を屈服させた。
ここで、ようやく石見に出兵できると思いきや、
和睦をはかり将軍の権威を高めようとしていた
足利義輝から御内書をもった使者がきた。
この時期は諸国の大名がいっせいに謁見していたというのもあった為、
毛利元就としても無視ができない状態になっていたのである。
ここで毛利元就の京都接触には使節に竺雲恵心を選んだ。
この竺雲恵心は京都に住んでおり、
皇室や幕府の人とも関係があったからだった。
この時は毛利元就は皇室に銀を送っており、
このため正親町天皇の即位式ができた。
さらに備中で三村家親を救援時に討ち取った
敵の首級を書き並べた文を差し出している。
武家社会だけで通用する物を送る凄さもあり、
京都の印象は強くなっていた。
そして毛利元就を陸奥守、毛利隆元を大膳大夫に任じている。


☆石見から尼子氏を排除へ☆

先のように御内書をもっきた足利義輝の使者であるが、
当然のごとく従うわけにはいかず、
小笠原氏を屈服させて石見から尼子氏を排除するのが目的だった。
ところが足利義輝のおじで外交僧としても有名な
聖護院門跡道増下向して来ると、
毛利元就も深刻になって応対に本腰を入れなければならなくなる。
ただその前に毛利元就は準備をしていたので小笠原長雄を降服させた。
石見全土の制圧を目指したために小笠原氏を許した。
このことによって福屋氏の領土を
小笠原氏に給与するなどの行為があったため、
福屋氏は尼子方にはしらせて反乱を起こすことになる。


☆尼子氏和平作☆

聖護院門跡道増は和平としてくると、
毛利元就との和談に応ずるというのは得たが、
尼子晴久との交渉はうまくいかなかった為、
尼子方と何かあるのではと毛利側は疑った。
そこで道増は自分は全く公正であるとし、
和談なしなら覚悟があると言っている。
この後、道増は帰京してしまい、
この時期に尼子晴久が死没している。
こうして尼子氏の当主には12歳の尼子義久が当主となったため、
女中衆を中心となって毛利氏との和平に熱をいれる事になる。
毛利元就は大森銀山をさらに攻めるが、本城常光などに撃退されてしまう。
この状況下のもとで、毛利元就勢に対しての大友氏の攻撃が激化する。
さらに、一旦は帰京した道増が
芸雲和談を進行させようと下向して来たのである。


☆毛利VS大友 門司城攻防戦☆

1561年、大友氏は豊前の進撃をすすめて、
ついに毛利勢が固守する門司城まで来た。
そのため、毛利元就勢は
毛利隆元と水軍の小早川隆景を大将として送った。

そして門司城の攻防戦が激化すると、
毛利勢は刈田松山城を海上から攻撃した。
このため大友勢は背後を立たれることを恐れて、大敗して退いた。

そして刈田松山城まで毛利元就のものとなったので
天野隆重を守将としておいた。

☆福屋隆兼反乱!☆

石見では、毛利氏に領地の問題で不満を持っていた福屋隆兼が、
自領と大森銀山の間にある吉川経安の福光城に攻撃をし始めた。
このため、大友と尼子を敵にしては
不利と考えた毛利元就は尼子氏と和談を決意する。
そこで毛利元就と吉川元春の軍勢で福屋氏の支城を攻略していった。
そして残りは本拠・本明城と支城・川上松山城の攻撃のみとなった。
一方、その頃は道増により毛利氏・尼子氏の和平が一段とすすんでいった。
ところが、未だに尼子方の本城常光が依然として
福屋隆兼の援助を続けてた為、これを断ち切ることを要求としたが、
和平は家中が尼子の離間策に乗るという不安もあった。
そんなこともあって、最後の詰めが思うようにすすまなかったが、
まずは福屋氏の攻撃が先で、それまでは尼子氏との和平を感じていた。


☆芸雲和談と福屋氏鎮圧☆

毛利元就は帰郷を急ぐ道増をとめる為に、
竺雲恵心や策雲玄竜に永興寺周端に任せた。
そして何とか道増を説得して尼子氏との和談に成功した。
これには人質の交換や結婚のとりきめもあったが、
毛利氏としては石見の福屋氏の援助をする
本城常光の停止を求めていたと思われる。
このときに道増の面目を保つ為に、さらに将軍両所を増やした。
足利義輝の相伴衆に召抱えられて毛利氏の家格が高められている。
こうして芸雲和談によって尼子氏の援助を断ち切ったため、
毛利元就勢は総攻撃をして川上松山城を陥落した。
そしてさらに本拠の本明城を攻略するが、
このとき既に福屋隆兼は逃走した。
福屋隆兼は尼子氏を頼るも受け入られず、
大和の松永久秀までいったという。


☆本城常光と出雲国衆☆

福屋氏を滅亡させると、
尼子方の本城常光を出雲の所領給与で降服させた。
さらに毛利元就は尼子氏との和談を破棄して、
出雲国衆を味方にさせていった。
そして人質を引き取ると、毛利元就は動き出した。
このときの理由は全く持ってのこじつけの理由である。
ただこのときの毛利元就は
何があろうと尼子氏を滅亡させる覚悟を決めたのである。
そして出雲進撃がはじまると、
尼子氏と深い関係の豪族が毛利元就の味方に付いた。
ところが尼子氏はここで連絡を通じると、
大友氏が動き出したて刈田松山城を攻め牽制した。
そのため、毛利隆元を再び西表に出征させることになった。
さらにこの時に、毛利元就は吉川元春に命令して本城常光を殺害させた。
依然、大森銀山に領土を保有していた為、殺害したと見られるが、
結局のところは出雲国衆を尼子方に戻すことになってしまった。
ところがほとんどの出雲国衆が味方となっていた為、
一旦は退いたものの再び北上した。
そして毛利元就は宍道湖に富田城攻略の拠点として洗合城を築いた。

☆芸豊和談と毛利隆元☆

毛利隆元は防府に到着して前線の指揮に当たると、
大友勢は刈田松山城に猛攻を加えるが、これは毛利隆元が撃退した。
この戦いで豊前の戦況は膠着状態になってしまう。
さらに以前の芸雲和談には興味を持たない毛利元就であったが、
芸豊和談には乗り気で、大友側にも
これを受け入れる事情があったためにこの和談はすすんだ。
そこで足利義輝は毛利方には
聖護院道増と大友方には久我晴道を派遣した。
ただやはり最後の詰めがうまくいかなかったようだったが、
芸豊和談は毛利元就は門司城以外は
筑豊両国からいっさい手を引くことと、
大友氏は防長両国へ侵攻しないことに加え結婚の取り決めがあった。
ところが、宗像氏・秋月氏・高橋氏などは毛利氏に内通していた為、
毛利氏がこれを援助するのをやめるよう大友氏は要求していた。
さらに防長両国の主張まではじめた為、
交渉は長引き1564年まで長引くことになる。


☆毛利隆元暗殺?☆

毛利隆元は九州から吉田郡山城に帰還すると、
すぐに軍勢をたてなおして北上する予定であった。
ところが、和智誠春の宿所に招かれていくと、
その後急病となって4日後に急死した。
この責任を問われて、
6年後に側近の赤川元保と和智誠春はいずれも殺害された。
毛利元就はよほどの疑問点を覚えたのであろう。
しかし赤川元保は、毛利隆元に
和智正春の宿所へ行くことを進めなかったとも言われている。
こうしてこの後の体制は、毛利輝元の後見を毛利元就がし、
それを両川が支えることとなった。


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