毛利元就物語其の一(1497年〜1517年)

☆毛利元就の誕生☆

明応6年(1497年)3月14日に毛利元就は生まれる。
父は安芸国人領主で吉田郡山城主の毛利弘元、
母は福原広俊の娘で、毛利元就の幼名を松寿丸と言った。
現在の広島県の安芸高田市で、広島県中央北に位置する。
また、毛利元就の生誕地は郡山城や、
母の実家の居城・鈴尾(福原)城など諸説あるがはっきりとしない。
しかし、現在は鈴尾城に誕生之地として石碑が建てられており、
郡山城の場所は確認できていない為、鈴尾城とみられている。
当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、
15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。

☆多治比の猿掛城へ☆

明応9年(1500年)に毛利弘元は嫡男の毛利興元に家督を譲る。
毛利弘元は毛利元就と共に多治比猿掛城に移るが、当時まだ33歳だった。
そして毛利興元はまだ8歳で幼名の幸千代丸と名乗っている段階であった。
当然、毛利元就も幼名の松寿丸を名乗っており、4歳であった。
何故、毛利弘元は何故早く隠居してしまったのか?これも諸説あるが、
毛利弘元の父・毛利豊元が毛利弘元が9歳の時に死去していることから、
自分が生きているうちにしっかり基盤固めをしておきたかったとか、
毛利弘元は病弱だったことを理由に挙げる説、
大内氏と細川氏の大きな勢力に挟まれたことで、
毛利家当主の責任をあいまいにして難を逃れようとしたからという説。
毛利家の重臣・坂広秋、坂広明との意見対立などがあげられている。
坂氏とは代々毛利家の執権をつとめており、
毛利家の内部の家政の実権などはすべて坂氏一族が持っていた。
また、毛利家当主も短命に終わった当主が続いており、
坂氏の権力が強く、毛利弘元がすべてを命令できない背景があったようだ。
毛利家当主としての実権を握られ、さらには西の大内、東の細川、
といった情勢の中で病弱という毛利弘元。
さらには吉田郡山城の北東にあり凄く近い甲立五龍城の宍戸氏と、
激しい戦いをしており、毛利家の存続の為には和睦が必要としている。
その為この隠居の際に、嫡男・毛利興元には強く言ったようだが、
この後も、甲立五龍城主の宍戸元源と戦い続け決着はつかずに終わる。
結局はっきりわかることは、毛利弘元は大変苦労していたということだが、
何はともあれ、毛利弘元は毛利元就(松寿丸)と共に、
多治比猿掛城(300貫)に移り、75貫を毛利元就(松寿丸)に譲るのである。

☆毛利元就の孤独☆

こうして、父の毛利弘元と母と共に猿掛城に暮らしたが、
母が文亀元年(1501年)に亡くなると、

父の毛利弘元も永正三年(1506年)に死去。
父の毛利弘元の死因は酒害でわずか39歳で死亡と伝えられている。
これは酒を飲みすぎが死因と言われている。
そして、永正4年(1507年)に兄の毛利興元が元服すると、
足利義稙を奉じて大内義興に従い上洛し、3年間在京することになる。
こうして毛利元就(松寿丸)は、父母もいなく兄もいない孤独の身になった。
さらに父・毛利弘元から毛利元就(松寿丸)は多治比300貫譲り受けたが、
毛利元就(松寿丸)が孤独の身になったことから、
家臣の※井上元盛が猿掛城をも横領してしまうのである。
この時から兄・毛利興元が3年間の在京生活を終えるまで、
毛利元就(松寿丸)は4年間も城を追い出されていたことになる。
その当時の毛利元就(松寿丸)は、父の毛利弘元の継室だった、
名を杉の大方といった若い女性が、
毛利弘元の死後、毛利元就(松寿丸)の養育に身を捧げたようだ。
自分を育ててくれる為に、多治比に留まって再婚もしないで、
貞女を遂げられたと、毛利元就自身も感謝している。
また、この大方殿の影響で毛利元就(松寿丸)は念仏を毎朝唱え、
以後、晩年まで朝夕念仏を唱え続けたという。
(また、井上光兼の念仏講に参加して、念仏について伝授されている。)

その後、永正8年(1511年)井上元盛は急死したため、
多治比猿掛城の領地は、井上俊久と井上俊秀の力によって、
毛利元就(松寿丸)にかえされた。
この裏では杉の大方が毛利元就(松寿丸)の為に奔走したと見られる。

※井上元盛は天文19年(1550年)井上一族が誅伐された時に死亡とあるが、
これとは別人ではないか?と私的には思うがよくわかっていない。※

☆少年時代の逸話☆

次の3つの話はすべて逸話である。

逸話1↓
あるとき、子守役が毛利元就(松寿丸)を抱いて川を渡ったときに、
つまずいてしまい、毛利元就(松寿丸)を川に落としてしまった。
子守役はそのことを非常に申し訳ないと謝罪すると、
毛利元就(松寿丸)は「道を歩いていては良くあることだ。気にすることは無い」
と平然に言って寛大な心を持っていたことがわかる。

逸話2↓
また、7歳の時には自分の領内で飼っていた白鶏が狐に殺されたことで、
毛利元就(松寿丸)は築山の狐の穴を発見すると、
松葉を持ってその穴をくすべて狐を殺そうとした。
この時、「生き物をみだりに殺してはならない」と大方殿の使いからが来たが、
毛利元就(松寿丸)は、「家臣が喧嘩をして、罪も無いのに殺された時に、
その人を殺した罪人を罰しないことがありますでしょうか?
白鶏も狐もそれと同じ家来同様ですから、罪人を捨て置くことはできません。」
こういったと言い、小さい頃からにも関わらず使いを驚かしたという。

逸話3↓
また、12歳の時に毛利元就(松寿丸)は厳島神社を参拝した。
毛利元就(松寿丸)は家来に「お前達は何を祈ったか?」と聞くと、
ある者が「殿が中国の主になりますよう」と祈ったとい答えたが、
それを聞き毛利元就(松寿丸)は笑って、
「中国とは愚かなことを言うな、何故日本の主となるよう祈らないのだ」
といい、家臣は「物事には順序があり、まずは中国の主からと言ったが、
毛利元就(松寿丸)は「志は大きくなければならない。
棒を願っても針しか叶わないものだから、日本を望んで中国の主となる」
といったと言うが、完全に謀反じゃないですか。(これは嘘でしょう)


☆毛利元就元服☆

永正8年(1511年)に毛利元就(松寿丸)が15歳で元服する。
元就という名前は、元の字は曽祖父から続く慣例に従ってつけたもので、
就の字は安芸の佐藤某という家臣が兄の毛利興元から頼まれ、
京都東福寺の東福寺のもとにいき、そこで彭叔守仙が選んだものだった。
後世、名大将になって数カ国を得るだろう、
やがて総領家を相続するだろうと、言ったとか言わなかったとか…。

☆毛利元就の初陣 〜有田合戦の背景〜☆

永正12年(1515年)に足利義稙を奉じていた大内義興は、
安芸の紛争をなくす為に、安芸国分郡守護・武田元繁を京より帰還させた。
この時は大内義興が京都にいる間に、その隙を狙って尼子経久が、
大内義興が足利義晴を将軍に擁立しようとするのに反対した勢力と結び、
安芸国を狙っていたから、大内義興は配下の武田元繁を急遽帰国させた。
しかし、当初は対抗させるつもりであったが逆に武田元繁は尼子経久と結び、

権力が衰えた安芸守護家の権威を取り戻そうとして、反大内氏の旗を上げた。
そしてついに己斐氏の己斐城を攻め始めた。
対する大内義興は己斐城の救援する為に毛利興元を出陣させ、
毛利興元はまず武田元繁側の有田城を攻め落とすと、
さらに己斐城をも攻め落とし救援に成功した。
この時み攻略した有田城はもともと吉川氏の領土であったので、
毛利興元は有田城を吉川氏の家臣・小田信忠へ返還した。
一旦は退けたが、永正13年(1516年)に兄の毛利興元は亡くなってしまう。
毛利興元はわずか24歳で死亡。死因はまたもや酒害とみられている。
(↑の死因もあって毛利元就は酒には気をつけていたようである。)
これによって兄・毛利興元の息子である幼少(2歳)の幸松丸家督をつぐ。

☆有田合戦前編☆

上記の通りに毛利興元は既に亡く、幼少の幸松丸が家督をついだので、
隙をついて、永正14年(1517年)に武田元繁は有田城への攻撃を開始した。
当時、有田城を治めていた吉川家の当主・吉川国経は京都におり、
留守をあずかる、吉川経基と吉川元経ら手勢300で有田城へ向った。
しかし、有田城を攻める武田元繁は熊谷元直、香川行景、己斐宗端ら、
5000人もの兵が出陣しており、落城は目に見えていた。
この有田城は毛利元就が居城とした猿掛城にも近かった為、
毛利元就にも危機が迫り、誰もが次は猿掛城という状態だった。
また毛利元就の妹と吉川元経は夫婦であり、吉川家を助ける名目が合った。

☆有田合戦後編☆

そしてついに毛利元就の居城・猿掛城近辺で、
武田元繁勢の放火が始まると、毛利元就は直ちに迎撃した。
↑これが毛利元就の初陣であり、見事に初陣を飾った。

この時、毛利元就は21歳で遅い初陣であるとともに、
さらに戦国武将の初陣は形だけで必ず勝てる戦に参戦し、
父親や後援者が必ず後ろについているものが通例であったが、
この当時の毛利元就には強大な後援者も父もいなかった。
そして毛利元就勢は初陣を飾った次の日に弟の相合元綱、
福原広俊、桂元澄、井上元兼、坂広秀、赤川元助などを率いて、
毛利元就を中心として700人が有田の戦場へ向かった。
その有田中井出で柵をはってた熊谷元直と戦ったが、
毛利元就勢が優勢となると熊谷元直は陣を立て直すために、
先陣をに進んで、敵陣を目指して切り込んで来た為に、
毛利元就勢の矢に射抜かれて、吉川勢の宮庄経友が討ち取った。
熊谷信直が討ち取られたとの報を武田信繁が聞くと、
これを受けて激怒し、自ら4800人を率いて出陣した。
毛利元就勢は吉川勢と合わせても1000人あまりしかいなく、
次第に戦況は悪化し、全軍が壊滅の危機にさらされた。
有田城から武田元繁軍の背後を小田信忠が付いたりしてましたが、
兵力の差がありすぎた為、毛利元就勢も又打川を越えて逃げ始めた。
しかし武田元繁は自ら、逃げる毛利元就勢を追撃し、
又打川を飛び越えようとしたところを毛利元就勢の矢にあたり、
すかさず、毛利元就の側近、井上光政が討ち取った。
この当主の戦死で武田勢は総崩れになり各地に敗走し破れた。
香川行景や己斐宗端もこの有田合戦で武田元繁に殉じた。
とにかくこの戦いで毛利元就の名は広く知れ渡るのである。
この戦いは後世に西の桶狭間とも言われている。
(桶狭間より凄く前の出来事なんですけどね(汗)


☆有田合戦後話☆

有田合戦後に伝わる逸話↓
有田合戦が毛利元就の勝利に終わると、
敗者となり討ち取られた熊谷元直の妻が、
「由緒ある熊谷家の当主が討ち死して、骸を供養出来ないとは情けなく、
主人の死骸を持ち帰らぬとは、家臣の者どももふがいない」
と言ったと言われ、妻が自ら夜中に有田の戦場に赴いて、
熊谷元直の腕にあった腫瘍の後を捜し歩いていた。
そして、家来の証言を頼りに見事に死骸を探り当てると、
胴体を持って帰ろうとしたが、夫をもって帰る力は無く、
形見として腕を引きちぎって懐に抱いて帰ったという。
毛利元就勢が遺体を持ち帰ったのは次の日のことである。
熊谷元直夫婦の愛の深さがこの逸話となっているのである。

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