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黒田如水

黒田如水 (くろだじょすい) 天文十五〜慶長九(1546〜1604)

この男は、言わずとしれた秀吉の右腕とも言える人物で、
官兵衛、孝高などの名で知られる。
また、関ヶ原の合戦の時には遠く九州にありながら天下を狙った武将である。
その人生を以下、紹介する。

如水は、天文十五(1546)年の11月29日、
姫路城にて黒田職隆の嫡男として生まれる。
母は明石正風の娘である。幼名を万吉といった。
如水は7歳の頃から武芸、兵略、文学などを学び始めたという。

16歳の時、御着城主の小寺政職に仕えた。
そして十七歳で初陣し、またその頃元服もして、官兵衛孝高と名乗った。

22歳の時、小寺政職の姪で志方城主の櫛橋伊定の娘を娶った。
翌年には男子が生まれ、松寿と名付けた。後の長政である。

さて、このころ家督を継いだ如水は近隣の豪族と戦って連戦連勝を納め、
どんどん武名をあげていった。
そんな天正三(1575)年、如水が30歳の時、
小寺家ではどの勢力の傘下につくか会議を開いていた。
ここで如水は巧みな弁舌で政職と重臣達を説得し、
織田家につかせることに成功した。
そして今度は岐阜へ行き、信長に謁見してその旨を伝えた。

そして天正五(1577)年、
ついに羽柴秀吉を総大将とした中国征討軍が発せられた。
その秀吉が播州に到着すると、
如水はすぐさま居城の姫路城を秀吉に明け渡した。
こうして中国征討が始まり、播州はほぼ織田家の領するところとなった。

ところが天正六(1578)年、突如三木城の別所氏が織田家に叛旗を翻した。
この影響で播州の形勢は一変、大小45もの豪族がともに叛旗を翻した。
さらにその年の10月、今度は摂津の荒木村重が叛旗を翻した。
如水は兼ねてからこの村重と昵懇であったので、説得に有岡城へ向かった。
しかしここで村重の手の者に捕まり、地下牢に入れられた。
これから如水は約1年程もこの牢に入れられることになるのである。
そして1年後の天正七(1579)年、荒木村重は毛利氏の元へ奔り、
有岡城は織田軍によって落城させられた。
このとき如水は家臣の栗山利安や母里太兵衛などによって助けられた。

有岡城から生還した如水はその後また中国征討軍に加わって進撃を続けた。
だが天正十(1582)年6月3日、如水らが備中の高松城を水攻めにしていた頃、
本能寺にて信長死すの報が入った。
ここで如水は秀吉に一策を授け、毛利氏と和議をとりまとめて全軍を回軍させる。
そして13日、山崎にて明智光秀を破ることとなった。

それからも秀吉を扶翼し、ついに天正十五(1587)年、
九州征伐の功によって豊前六郡12万石に封ぜられた。
また、これより前の天正十四(1586)年には従五位下勘解由次官に叙された。
如水が豊前に入ってから翌年の正月まで
城井谷城の宇都宮鎮房を中心とした国人一揆が起こったが、これも如水は切り抜けた。

そして天正十七(1589)年、如水は嫡子の長政に家督を譲った。
だがその後も秀吉のそばにいて秀吉を助けた。
朝鮮の役にも従軍し、異国へわたったりもした。
そして秀吉が死んでから2年後の慶長五(1600)年、関ヶ原役が勃発すると、
如水は浪人や町人、農民などをかり集め、近隣の平定をめざした。
そしてその年の9月13日、石垣原にて大友義統と激突、これを退け、
豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向の諸国を殆ど平定した。
そして残る島津氏の薩摩への国境付近まで迫るが、
ここで島津氏と家康の和議が成立したので、如水らは自国に凱旋した。

さて、関ヶ原役後の論功行賞では、
黒田氏は本戦での長政の功もあり、筑前52万5000石に封ぜられた。
ここで如水は悠々自適の生活を送り、
慶長九(1604)年3月20日に59歳で死去する。

辞世の句は 「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよわじ なるにまかせて」

この如水は築城家としても知られ、豊前に入国したときには中津城を、
筑前に入国したときには福岡城を築いている。
残念ながら福岡城の完成は見ることなく死去したが、
ほかにも安芸の広島城や讃岐の高松城の築城も監督した。
また如水は華道にも通じ、
その晩年には京都で細川幽斎(藤孝)などと連歌会を催していたりもする。

このように如水は文武の両道に通じていて、
まさに名将だったといえるのではないだろうか。

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