安芸吉川氏物語 其の四 (1509年〜1539年)

☆67歳で家督相続 第十二代・吉川国経☆

1509年、吉川国経は吉川経基が遅くまで実権を握っていた為、67歳で相続した。
この頃は、防長の守護大名・大内氏と幕府の実力者・細川氏との対立が激しくなり、
細川氏が失脚すると、山陰の尼子氏が台頭し、大内氏と争う。
吉川氏のような安芸国人領主はこの間に位置しており、板ばさみになって苦しんだ。
安芸国は守護が何度も交代し、強大な守護領国ではなかった。
このため、吉川氏などの国人領主は思い通りに両国経営ができていた。
この中で、国人領主のリーダー格が毛利氏である。
大内氏と細川氏との戦いでは双方から従軍を促されたが、大半が大内氏側についた。
足利義稙は細川氏に将軍職を追われて大内氏を頼り、
大内政弘の跡を継いだ大内義興は足利義稙を助けて上京した。
吉川氏らはこの上京に従軍し、足利義稙の復職が引き金となった、
1511年の船岡山合戦では大内氏配下の中国勢が活躍し、細川勢を敗走させた。
尼子氏当主の尼子経久も大内氏に従って上京したが、合戦後はいちはやく帰国。
周辺の侵略を開始し、東は伯耆、西は石見まで領域を広げ、安芸へ南下を図った。
こうした情勢の中、1497年に毛利元就が生まれ、後に吉川氏も大きく影響を受ける。

☆有田合戦 前編 第十三代・吉川元経☆

吉川氏は中世に入ると、安芸国大朝新荘を本拠に勢力を広げ拡大した。
第十三代・吉川元経が家督を譲り受けて間もない1517年に千代田で有田合戦が繰り広げられた。
戦いの背景は、前項の通り大内氏が京都に長くとどまったことから、
尼子経久が大内氏の領土に侵攻したので、尼子氏討伐として武田元繁に命じて帰国させたが、
武田氏も背き、周辺の領土の侵略を始め、吉川氏領の宮庄に侵入して交戦。
その後、有田城も攻めて、落城寸前に追い込んだ。

武田元繁は毛利氏の当主の幸松丸がまだ幼いので、叔父の毛利元就さえ倒せば吉田も落ちると見た。
1000騎を多治比に入れたが、毛利元就は300騎で打って出て交戦した。
毛利氏勢は有田城表で雌雄を決しようと1500騎で出陣し、中井出の熊谷元直の陣地を攻めた。
熊谷勢500騎は勇壮で陣地も強固だったが、毛利勢はさくを破ってなだれ込んだ。
熊谷勢は敗色濃くなったが、熊谷元直は退かず、
熊谷元直は吉川国経の加勢200騎の宮庄経友に討ち取られ中井出の陣を破った。(陰徳太平記)

武田元繁は本陣からの援軍派遣が遅れたことを悔やんで涙を流したという。
合戦がこの通りかどうかは定かではないが、熊谷元直がこの戦いで戦死したのは事実である。
この熊谷氏は武田氏と南北朝時代から緊密だった。
さらに毛利勢は進み、武田氏の本陣に迫った。

☆有田合戦 後編☆

武田勢は5500騎。武田元繁は700騎に吉川氏側の有田城主・小田信忠を牽制させ、
4800騎を五手に分けて備えてた。
直、この有田城がいつ築かれたか、小田信忠についてはよくわかっていない。
対する毛利元就は1700騎を五手にわかれて展開し、毛利元就は二陣を指揮した。
毛利勢は善戦するが、武田勢も士気が高く押されては退き、引き返してはまみえた。
城主の小田信忠も城門から300騎を率いて打って出て奮戦した。
武田勢は新手を繰り出しては対抗し、毛利・吉川勢の敗色が濃くなった。
毛利元就は討ち死にを覚悟して武田勢の本陣を突く。

「元就(中略)打残されたる、780騎の者共に向ひて(中略)彼処に旗打ち立てゝ、扣へたるは元繁也、
勢纔に450には過ぎじ、無二に蒐入り、元繁と引組んで刺違ふべきぞ(中略)とて、
一文字に懸り給へば、元繁も元就と見て、あれ討ちとれやと、自ら蒐出でらる」

「元繁(中略)真先に進まれける間、丹比(多治比)勢難なく追ひ立てられ、
又内(打)川を越えて引いて行く、元繁息な繼がせそとて、俊馬に策を打つて、
河水を閃りと飛び越されける處を、元就、あれ射て落せや者共と、78騎にて馳寄せらるれば(中略)、
丹比勢共、立帰つて射ける矢に、元繁の胸板後へ究と射徹しける程に(中略)
元繁(中略)又内川の水際に、馬より真逆に落ちられける(後略)」(陰徳太平記)

当主の戦死で武田勢は総崩れになって敗れた、という。
他の資料と合わせて確かなことは武田元繁の戦死と、討ち取ったのは井上光政だったことである。
この戦い後、毛利元就の名は広く知れ渡り、京都に滞在中の大内氏からも、
「多治比のこと神妙(殊勝)」という感状を受けている。
毛利・吉川はこの後この土地を支配し、又武田氏は徐々に衰退し、やがて滅亡をむかえる。

☆鏡山城攻防戦 前編 第十四代・吉川興経☆

1522年、吉川氏では十三代・吉川元経が64歳で急死し、十四代・吉川興経が家督を継いだ。
吉川興経の年齢には2つの説があり、この時は5歳か14歳であった。
祖父で第十二代の吉川国経は既に80歳だったが健在で、当初は吉川国経が政務を代行した。
これより6年前に、大内義興は10年ぶりに京都から山口に帰り、
安芸分郡守護・武田氏討伐の準備にかかり、
武田氏領の西隣で、厳島神主家の「神領」だった佐西郡を直轄領扱いとして足場を固めた。
吉川興経が家督を継いだ年、大内氏は武田氏を攻めたが、戦果はあがらなかった。
翌年、厳島神主家の友田興藤は一族間の家督争いの末、
自ら神主を名乗って反大内氏の兵をあげた。
かねてから安芸侵攻を狙っていた山陰の尼子氏は、これをチャンスとして南下を始めた。
1523年、尼子氏は大内氏の直轄領で安芸支配の拠点である東西条の鏡山城に向った。
大内氏と尼子氏の2大勢力の谷間に置かれた安芸の国人領主は態度決定を迫られた。
吉川氏は、有田合戦の直後に尼子氏方となった。
尼子経久の妻は吉川経基の娘で、親戚関係にあったためである。
武田氏は反大内氏の立場から尼子氏と結んだ。
しかし、毛利氏は長年大内氏に従い、大内氏も毛利氏に領地を与えていたので、
簡単に尼子氏へは走れなかったが、尼子勢は毛利領北方の北池田に入り、
毛利氏の参戦を促したため、これを拒めず、幼主・幸松丸が鏡山城攻めの先鋒を務めた。

☆鏡山城攻防戦 後編☆

尼子経久は鏡山城の北西にある下見峠に布陣し、
毛利元就は吉川国経らと共に4000騎を率いて城の東北にある満願寺に陣を構えた。
尼子氏側は昼夜を分かたず攻めたてたが、大内氏側の城主・蔵田房信が頑強に抗戦。
中々決着がつかないので、毛利元就は計略を考え、
蔵田房信の叔父・蔵田日向守に密使を送って寝返らせた。
そして城中の混乱に乗じて総攻撃をかけ、ついに落城させたという。

☆鏡山城攻防戦のその後☆

毛利元就と共に、尼子勢の一角として鏡山城攻めに参加した吉川氏は、
十四代・吉川興経が祖父・吉川国経の後ろ盾で当主として成長していった。
鏡山城攻め後の安芸国では大内氏による尼子氏方国人領主への攻撃が盛んになっていた。
厳島神主家の友田氏の本拠地・桜尾城攻めには大内義興が自ら出陣して降伏させていた。
一方の、毛利氏では1523年に当主・幸松丸が9歳で病死した。
合戦直後の発病が理由で、鏡山城攻めの出陣が負担だったとみられている。
幸松丸の死去により、家督を誰が継ぐかでもめたが、
尼子氏から子息を迎える案を抑えて、毛利元就が家督を相続した。
決まると、宿老15人が名前を連ねて、「家中一致」として尼子経久に願い出、承認を得た。
こうして毛利元就は、多治比猿掛城から当主の郡山城に移った。
毛利元就は、これより前に吉川国経の二女で、
吉川興経の叔母にあたる妙玖夫人を迎えており、毛利元就の相続は喜んだに違いない。
家督相続の以後、宿老15人のうち坂、渡辺両氏が毛利元就を殺害し、
異母弟の相合元綱を立てようと画策している動きが明るみに出た。
毛利元就は相合元綱を殺害し、坂、渡辺一派を討伐した。
これには背後に尼子氏の存在があったと見られており、
毛利元就は尼子氏の態度に「曲なき(面白くない)子細数多候」とし、
「防州へなげつけ申候事」(毛利家文書)と記し、再び大内氏側になる決意をしたらしい。
大内氏側となった毛利元就は各地に転戦し、説得工作で国人領主を味方に取り込んだ。
1529年には大内氏側から尼子氏側に変わった北隣の高橋氏の松尾城を攻め落とし、
本拠の藤掛城も攻略し、一族を全滅させている。
毛利元就は、この領地を近隣の国人領主に分け与えて味方に誘ったのである。
1530年には山県郡北方を、翌年には佐東郡の一部をはじめめとした領地を与えているが、
尼子氏とつながりの強い吉川氏の態度は変わらずに、やがて戦うことになるのである。

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