安芸吉川氏物語 其の三 (1371年〜1508年)

☆石見吉川氏から婿養子 八代 吉川経見☆

     吉川経兼(石見吉川氏 三代)
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 吉川典廐丸  吉川経春    吉川経見(安芸吉川氏相続)

七代 吉川経秋には息子がいなかった為、
石見吉川氏の二代 吉川経兼の息子の吉川経見が婿養子入りして家督を相続した。
1371年、九州探題の今川了俊に従って、安芸・備後の武士団に加わって九州へ遠征した。
翌年に、筑前の城攻めに参加し、ついで豊前、筑前を転戦。
1376年には、筑前、筑後の各合戦にも加わって手柄を立てた。
翌年、さらにその翌年に、吉川一族が数多く転戦している。
足利義満これらの勲功にむくいて、吉川経見の所領を増やした。
父・吉川経兼から譲られた石見国の一部所領も引き継ぎ、その領土は広がった。
この時代、南北朝の動乱はまとまりを欠く一族は滅亡させかねない時代だった。
この為、吉川家では分割相続をやめて、長男が一括して相続する総領制が取られ始めている。
吉川一族の体制が固まった時期となった。


☆吉川経見のいた石見吉川家とは?☆

石見吉川氏は石見国三隅荘を本拠とする三隅氏から分家した永安氏の本拠地の、
長安本郷(旧名・永安別府)が発祥地である。
安芸吉川氏の祖・吉川経高の弟・吉川経茂が永安氏祖の永安兼祐の孫娘(尼良海)と結婚。
永安兼祐は1人息子の永安兼栄が自分と一緒に蒙古来週の防備をしなかった親不幸に腹を立て、
所領は息子にではなく孫娘に譲る、という置き文を妻(尼良海)に残した。
相続はこの遺言通りに行なわれ、尼良海は祖父の領地を得た上、その領地も譲られた。
それを吉川氏の子孫に譲ったのが石見吉川氏の起こりらしい。
1308年に、尼良海は鎌倉幕府から永安別府の地頭職を与えられたが、
弟、兼員かがこの領地の相続を幕府に訴えた為、結局領地は半分になり、
1333年、尼良海は永安別府一部地頭職とされている。
この時、尼良海は吉川経茂に先立たれているらしい。
直、近世と違って、中世の女性は男性同様の相続権があった。
初代・吉川経茂は妻の永安別府に入り、実質的に取り仕切っていたと思われる。
所領は尼良海から長男・吉川経貞、三男・吉川経兼を経て吉川経見に引き継がれた。
この永安氏は栄えるが、後に毛利元就の石見攻略によって滅びる。
また、石見国の拠点や勢力は、後に毛利両川体制ができてから山陰経営の足がかりとなる。


☆室町幕府に従い奮戦 九代・吉川経信☆

吉川氏の九代、十代の時代になると、室町幕府が徐々に衰退し始め、
応仁の乱を迎えることまでになる。
ともに、幕府への忠勤を励み、安芸国の分郡守護・武田氏に従って戦った。
吉川経信は20歳で家督を継ぐと、幕命に従って各地に出陣し転戦した。
1440年、幕府に反旗をひるがえした一色直信を討伐する軍に加わり、先鋒として奮戦。
1441年に、播磨国守護・赤松満祐が六代将軍・足利義教を殺し、
孤城にたてこもった際にも、直ちに出兵した。
さらに、続く戦いにも手柄をたて、七代将軍・足利義勝から感状と太刀を受けているが、
それだけ家臣の死傷者も多かった。

☆応仁の乱で奮戦 十代・吉川之経☆

吉川之経は安芸国の分郡守護・武田氏に従い、支配下のでは最有力の地頭だった。
1457年、武田信賢と厳島神主家の領地争いの時、
厳島神主家は大内教弘に助けを求め、武田氏と大内氏の対決になった。
大内氏は釈迦岳城を攻め落とし、ついで己斐城を囲んだ。
北上して本拠の金山城(後の銀山城)を攻め、ふもとの山本や鳥屋緒で白兵戦が展開された。
吉川之経は幕府管領の細川勝元の命令を受けて、毛利氏とともに出陣。
山本で奮戦して落城の危機を救った。
1467年、足利義政の後継ぎ問題をきっかけに全国の守護大名系列に引き込んで、
細川勝元と山名持豊(宗全)が権力争いの末、応仁の乱がはじまった。
吉川氏は分郡守護・武田氏とともに東軍だった。
相国寺周辺の激戦に加わり、一門の死傷者は少なくなった。
一条高倉合戦で戦死1人、負傷者13人。武者小路今出川合戦で負傷者6人。
北小路高倉合戦で戦死1人、負傷2人。鹿苑院口櫓合戦が負傷2人。
今出川東合戦で戦死1人、負傷10人と記録されている。
吉川経基は山名氏の武将・畠山義就と相国寺焼け後で交戦。
この戦闘では激烈を極めて、吉川之経は奮戦。息子の吉川経基が負傷。
この時、吉川経基を顔面が傷だらけだったことから俎(まないた)吉川、
又、その武勇をおそれて、鬼吉川と呼ばれていたと言う。
しかし緊密だった武田氏とは、応仁の乱後、破局を迎えて対決することになる。

☆俎吉川、鬼吉川こと 十一代・吉川経基☆

第十一代吉川家当主・吉川経基は前項で述べたとおり、
応仁の乱で手柄をたて新しい領地を得たが、それは北で領地を接する高橋氏との摩擦を生んだ。
やがて、安芸国山県郡東部の千代田をめぐり、両者の力比べともいえる戦いが、
千代田盆地の標高377メートルの山上にある有田城を舞台に繰り広げられた。
高橋氏は駿河国の出身で南北朝時代に石見国阿須那に土着、その勢力を広げていた。
戦国期に入ると、当主・高橋久光が領土を増やそうと備後や安芸に進出した。
高橋氏の勢いは相当のもので、安芸国の国人領主のリーダー格になっていた毛利氏も、
高田郡内で境界を接する為に警戒しており、
吉川経基にあてた手紙では、高橋氏との対立関係をにおわせ、共同歩調を取ろうと呼びかけている。
1504年、吉川経基が有田城の城主・小田信忠のところに自分の家臣を入れて守らせていたが、
高橋久光が突然、数千騎を率いて攻めてきた為、防戦したがかなわず逃げ出した。
高橋久光は手に入れた城に豪勇な重臣を入れて守らせたが、
吉川経基は自分の家臣を敵方になりすませて送り込み、隙を狙って重臣を切り殺され奪い返した。
高橋久光は、兵5000人を連れて再び南下、吉川経基も兵1000人を連れて城にこもった。(陰徳太平記)
結局、この勝負は安芸分郡守護・武田元繁が間に入って引き分け、有田城を小田氏に返させた。
合戦の内容は陰徳太平記にしかないので、真偽は謎だが高橋氏とは緊張関係で合戦があったようだ。
この時、鬼吉川こと吉川経基は76歳、長男の吉川国経は61歳と奮戦していた。
また、吉川経基は和歌や書道にも優れた文人でもあって、
天皇が出した歌の題に応じて百首の歌を献上したり、古今集と伊勢物語を書き写して納めていて、
俳文学史上貴重な資料の、年中日発句や老葉などの本が残っている。
さらに、禅学にも詳しく、元亨釈書を京都五山の僧と一緒に筆者し、この洞泉寺に寄進している。

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