安芸吉川氏物語 其のニ (1267年〜1370年)

☆五代 吉川経高、安芸国大朝本荘へ☆

吉川氏の五代・吉川経高は1267年に父・吉川経光から家督を相続した。
しかし、安芸国大朝本荘や播磨国福井荘などの遠くの領地を経営するのが大変で、
安芸国大朝本荘では近隣の豪族が侵入し、領地を奪ったりした。
吉川経高は鎌倉幕府に返還を求めて訴状を出すと、
1313年に領地の返還を豪族に命じて、吉川経高を再度、地頭職に命じた。
これがきっかけとなって、吉川経高は安芸国大朝本荘に移住を決めたのである。
承久の乱以降に任命された地頭を新補地頭と呼び、
毛利氏や熊谷氏などと同様に吉川氏も新補地頭だと思われている。
移住を決めた理由は関東には有力御家人がたくさんおり、
吉川氏のような群小御家人が自立の道を進むのは大変だったようだ。
中央政権に近く、圧力や刺激を受けすぎることも原因で、
氾濫を繰り返す川の地域では稲作も不便だったことも原因だったようだ。
とにかく1313年に、吉川経高が80歳の時に移動した。
吉川経高の長弟、吉川経盛は播磨国福井荘にいき播磨吉川氏の祖になり、
ニ弟は吉川経茂は石見国津淵村の地頭職となり、石見吉川氏の祖となった。
また、末弟の吉川経時は本領にとどめられ、駿河吉川氏を継ぐことになる。


四代 吉川経光
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吉川経時(駿河) 吉川経信 吉川経茂(石見) 吉川経盛(播磨) 吉川経高(安芸)


☆安芸吉川氏の始まり、六代・吉川経盛☆

吉川経高は当初、近くの養性寺に住んだが間もなく駿河丸城を築き、
家臣の屋敷などの区画を決めると、6年後の1319年に亡くなった。
吉川経高の後を継いだ吉川経盛は鎌倉時代末期〜南北朝時代で、
吉川氏も近隣の豪族との系列戦争に巻き込まれることになる。
吉川氏はおおむね足利尊氏の側についた。
これは安芸国の守護・武田信武が足利氏方の中心だったもので、
1335年には吉川経盛は武田信武とともに、南朝方の熊谷蓮覚の矢野城を攻めた。
一族の吉川師平は、息子・吉川経朝とともに大手門を打ち破るが戦死した。
その後も京都に入って、武田氏とともに各地で転戦。
吉川経朝や吉川経久らは足利尊氏などから感状を頂いている。
1337年、吉川経盛は武田氏とともに石見へ兵を進めており、
たくさんの勲功をたて南朝軍に対する掃討作戦は順調に進み落ち着いた。

    四代 吉川経光
      
    五代 吉川経高
      ┌―――――――┬―┴―――――――――┐
        吉川経頼      吉川経長         六代 吉川経盛
                    |                 |
                    吉川実経         七代 吉川経秋

虎熊丸


☆南北朝のさなか、七代・吉川経秋☆

足利尊氏は南朝方と対立していたが、同時に自分の弟・足利直義とも抗争になっていた。
天下三分の形成に成り、これは吉川氏一門にも影響を与えた。
吉川経盛の甥・吉川実経は1350年に武田氏信に従い、
石見国の反足利尊氏方の西条郷の城を攻めた。
さらに吉田荘の毛利親胤、寺原時親の寺原城・与谷城などを攻め、
山形為継、壬生道忠らが守る猿喰山城も攻略し、陥落させた。
そんなさなかに吉川経盛は吉川経秋に家督を譲った。
家督相続してから2年、1352年に安芸国でも反足利尊氏方が動き始めていた。
吉川実経は武田氏に従い、毛利弥次郎の祢村城を攻めて陥落させた。
さらに毛利元春の内部城も包囲して陥落させ、毛利元春は吉田城に逃げたが降伏した。
毛利親衡がこもる坂城も攻めたが、この城を守りが堅く、
石見国の反足利尊氏方・足利直冬が呼応して寺原城に陣取った。
これが寺原の合戦である。
一方、石見吉川氏の2代目・吉川経兼は足利直冬方となり、
足利直冬の部将・今川頼貞の命を受けて寺原の戦いに参戦。
坂城の陣で武田氏を敗走させ、転進して三田馳山の攻撃に加わり、頭に傷を受けている。

安芸吉川氏と石見吉川氏は、
足利尊氏ー武田氏信ー吉川経秋      足利直冬ー今川頼貞ー吉川経兼

となっていたが、足利直冬が南朝方に下ったのをきっかけに、
安芸・石見吉川氏ともに南朝方となり、
やがて吉川経兼は足利直冬から新荘の地頭職を得て、1370年に一族は新荘を手に入れた。

吉川経光

┌―――――┴―――――┐
 吉川経茂(石見)       吉川経高(安芸)
┌┴―――――┬――――――┐
吉川経兼(三代)    吉川経任    吉川経貞(二代)

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