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安芸吉川氏物語 其の一 (1185年〜1266年)

☆吉川と姓と名乗る☆

吉川氏は藤原鎌足の孫で、南家武智麿の四男・乙麿の流れをくむ、入江氏の支族。
入江氏は藤原維清が駿河国の入江荘に住んでいたことから入江氏と名乗る。
その後、入江一族は発展し、次々と支族が増えていった。
吉川氏の始祖・吉川経義は藤原維清の曾孫・入江景義の長男。
1185年に居館を構え、地名を姓にして吉川氏、吉香氏、吉河氏などと名乗った。
この後、吉川氏と名前が固まるのは安芸国に移った11代の吉川経基の頃である。

☆吉川氏の始祖・吉川経義☆

時は平家に変わり、源氏が勢いを増している時代。
吉川経義は1183年に鎌倉幕府より駿河吉川の地を賜うとある。(駿河記)
これは鎌倉幕府が1192年に成立しているのと矛盾しているが、
東国支配権が確立した1183年の説もあり、あながち間違えではないようだ。

☆吉川氏の発展 〜吉川友兼、吉川朝経、吉川経光☆

吉川経義の子・吉川友兼は1189年に源頼朝が奥州藤原氏を討つ討伐で奮戦。
1190年の源頼朝の初めての京都入りにもついていき、
1193年の富士の巻き狩りの警護にも当たっている。
吉川友兼が更に有名になったのは、1200年に幕府に謀反を企てたとされる、
梶原景時一族と偶然出会い怪しみ、追っていった。
そこで戦いがおき、梶原景時の三男で豪胆な梶原景茂と吉川友兼は戦い、
倒したが、自分も深い傷をおったため、息を引き取った。
また、梶原景時は一族が相次いで戦死したので、長男、次男とともに自殺した。(吾妻鏡)
また、吉川友兼の息子・吉川朝経も父とともに戦い、
亡父の手柄もあり播磨国揖保郡福井荘の地頭職を与えられた。
吉川朝経の息子・吉川経光は承久の乱で幕府側に付き、
京都・宇治橋の戦いで手柄を立てて、安芸国大朝本荘の地頭職になった。
支族だった吉川氏は、活躍して3地方も手に入れるのである。

   吉川経義(駿河吉川氏の始祖)

吉川友兼

吉川朝経

吉川経光


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