毛利関係武将列伝

毛利元就と関わりのある武将を名前順で紹介します。
毛利元就関係武将列伝 現在の武将紹介数
 111名

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相合元綱

毛利弘元の三男。毛利元就の弟。
坂氏・渡辺氏を誘って謀反を企てたが、暗殺される。
これには尼子家側からの関与があったと思われる。


赤川元光

赤川房信の嫡男。
しかし、戦いで討死する。


赤川就秀

赤川房信の次男。(初名を元信)
1523年に毛利元就の宗家相続の際に、
要請した宿老15人のうちの1人。
その後は尼子氏に人質として派遣されるが、
毛利元就が尼子氏と絶縁すると城を脱出。
無事に吉田郡山城に帰還した。
そして尼子攻めの時には、案内役をしたという。


赤川元保

赤川房信の四男。(初名を元助)
1523年に毛利元就の宗家相続の際に、
要請した宿老15人のうちの1人。
1550年の五奉行制が確立されると、
毛利隆元の直属奉行人の筆頭として活躍する。
しかし、毛利元就の奉行人(児玉就忠・桂元忠)らと、
対立して専横ぶりが目立つようになる。
その中で、1563年に毛利隆元が和智氏の饗食を受け、
その直後に毛利隆元が急死した責任を追及される。
そして1567年に毛利元就の命令によって自刃する。
しかし、赤川元保は和智氏の饗食に行くことを、
再三意見して止めていたことが分かっている。


赤川元久

赤川房信の五男。
1563年に毛利隆元が和智氏の饗食を受け、
その直後に毛利隆元が急死した責任を追及され自刃する。


赤川元秀

赤川就秀の嫡男。
1541年の郡山城籠城戦や、出雲攻めに参戦すると、
安芸矢野の戦いなどで戦功をあげて感状を得る。
1568年の九州遠征では陣奉行を命じられ、
1572年の毛利氏掟で年寄衆に確認される。
1580年代は備後福山城を守備する。


赤川元通

赤川就秀の次男。
赤川元保が和智氏の饗食に行くことを、
再三意見して止めていたことが分かると、
甥にあたる赤川元通が赤川元保家を再興させた。


阿曽沼広秀

安芸国国人領主で鳥籠城城主、妻は田総元里の娘。
1523年頃に、阿曽沼広秀は大内氏を離反して尼子氏側に属したため、
1527年に大内氏重臣の陶興房に攻められ降伏。
大内義隆滅亡後は毛利元就に帰属し、
厳島の戦いや防長信仰戦などを通じて活躍する。
また1560年には足利義輝より中務少輔の官途を拝領する。
しかし、出雲遠征への参陣を遅らせて毛利元就から催促を請け、
また毛利氏から課せられた公事についても不満を表明するなど、
まだ安芸国人領主としての独立性は維持していた。


阿曽沼元秀

阿曽沼広秀の嫡男。芸雲防石に4813石を領していた。
長女は天野元政に、次女は桂元信に嫁いでいる。


天野元政

毛利元就の七男。
米山城主・天野元定の婿養子となって天野氏を名乗る。
上月城の戦いで手柄を立て、各地の合戦に出陣して活躍をする。

後に仏門に入り宋休と名乗る。
また、毛利八家の右田毛利家の祖ともなった。


粟屋元国

粟屋氏の惣領にあたり、
毛利元就家督相続の際には、粟屋元秀に自分の病気の神仏詣として、
将軍に毛利元就相続を直訴させた。
1529年の安芸松尾の戦いでは活躍して感状を得ている。


粟屋元種

粟屋元国の弟・元方の息子。(初名を元宣)
1568年頃から奉行人として勤め、
1572年の毛利氏掟の奉行衆の1人として名を連ねている。
その後、1585年頃まで奉行人を勤めた。
1578年には摂津木津城の在番を命じられ、恩賞を受けている。


粟屋元信

粟屋元種の嫡男。
1579年の備中賀茂の戦いで戦死する。


粟屋元貞

粟屋元種の弟・盛忠の次男。
粟屋元種の嫡男・元信が戦死したことにより、
粟屋元種の養子となる。


粟屋元秀

1507年から1511年までの毛利興元の出陣では、
京都に出陣して従った。
また1523年の毛利元就の家督相続の要請をした、
宿老15人のうち1人に確認される。


粟屋元親

粟屋元秀の孫。
1540年の安芸国での平賀氏との戦いや、
尼子氏との戦いなどで戦功を上げる。
さらに、防長制圧では50余人を討ち取る。
そして五奉行制度が確立すると、
毛利隆元の直属奉行人として参画する。


粟屋元通

粟屋元秀の孫で、粟屋元宗の息子。
1548年の備後神辺城攻めに参加すると、
防長制圧や伊予攻めなどにも参加して活躍する。
また、岩国の代官職も務めており、
1572年の毛利氏掟の年寄衆の1人に確認できる。


粟屋元信

粟屋元親の息子。
兄・元著が早世したために、家督を相続し、
そして父から奉行人の地位も引き継いだ。


粟屋元定

粟屋元通の嫡男。
粟屋元通から家督を相続する。



飯田元親

児玉元良の次男。
しかし、飯田氏の家督を相続する。
1516年の武田元繁との有田の戦いで戦功を上げ、
1523年に毛利元就に宗家相続を要請した、
宿老15人の中の1人でもあった。


飯田元重

飯田元親の弟。
兄・飯田元親の死後、飯田家の家督を相続し、
郡山城籠城戦や、安芸明石口の戦いで活躍。
1556年には、石見の佐波興連への急使をした。


飯田義武

1554年の厳島の戦いの前の海戦に参戦し、
厳島の戦いでは軍隊を厳島に輸送し、海上警備をした。
1561年の豊前沖、1563年の伯耆弓浜をはじめ、
立花沖にも参戦し、織田軍との大坂本願寺救援にも派遣された。


井上光兼

井上勝光の嫡男。
数多い井上一族の中の総領家にあたる。
1507年に井上光兼の邸宅に訪れた客僧を、
当時11歳の毛利元就(松寿丸)が大方殿と共に、
井上光兼の邸宅に訪れた。
そこで念仏の伝授を受けた毛利元就(松寿丸)は、
毎朝朝日を拝み、念仏を十篇ずつ唱え、
日輪に対して祈祷するようになったという。
また、1550年の井上一族が誅伐を受けた際には、
これを免れていることから、
井上光兼は毛利元就に目を掛けていたようだ。


井上元盛

井上勝光の次男で、井上光兼の弟。
毛利元就(松寿丸)が父・毛利弘元から譲り受けた、
多治比300貫の所領を横領している。
また、井上元盛は横領後、急死したことから、
井上俊久・井上俊秀の尽力で復帰できている。
しかし、1523年の毛利元就に宗家相続を要請した、
宿老15人のうちの1人にも確認されている。
1550年の井上一族が誅伐を受けた際に、
井上元盛も殺害されている。
前半、後半の記述は同姓同名(?)で別人か?
未だによくわかっていない。


井上元景

井上勝光の三男で、井上光兼の弟。
(井上有景の嫡男とする系図もある。)
後に、井上元景から井上元有に改名。
1523年の毛利元就に宗家相続を要請した、
志道広良の使者として毛利元就の元にいくと、
その後、宿老15人の連署状をかかえて、
国司元相と共に使者として、多治比城に要請した。
その後、1550年の井上一族が誅伐を受けた際に、
井上元景(元有)も殺害されている。


井上光俊

井上勝光の四男で、井上光兼の弟。
毛利興元の時代から、幸松丸、元就、隆元と仕え、
1516年の宍戸攻め、1517年の安芸武田氏との戦いから、
1540年の郡山城籠城戦などでも活躍し、
1549年に毛利元就が山口で病にかかった時も看病した。
その為、1550年の井上一族が誅伐を受けた際に、
これを免れている。


井上元兼

井上光兼の嫡男。
1523年の毛利元就に宗家相続を要請した、
宿老15人のうちの1人に確認されている。
この毛利元就の宗家相続には、
井上一族が5人もおり、力があったことがわかる。
このため、毛利元就が宗家相続したのには、
自分達の力があったからだと思った井上一族は、
年賀の式、出仕、評定の議などにも不参加、怠り、
その上、まれに参加した評定でも、
上位の渡辺氏よりも上座に座るなど着座を守らなかった。
そして許可無くして隠居。
譜代家臣としての職務も果たさなかった。
その為、1550年に毛利元就によって、
1550年の井上一族が誅伐を受けて、
総領の井上元兼ら30余名が誅伐された。


井上元光

井上光兼の次男。(初名を元在)
毛利元就の妹婿だったため、
1550年の井上一族が誅伐を受けた際は免れた。
この時に総領家の井上元兼が誅伐されたため、
井上家宗家をそうぞくする。
また、安芸高ノ峯城を預けられている。


井上就正

井上光兼の六男。(井上元兼の六男?

毛利元就を烏帽子親として元服して就正と名乗る。
1550年の井上一族が誅伐を受けた際は、
先祖の戦功によって誅伐を免れ、
一時、吉川元春の元に預けられたが、
その後、誅伐された叔父の井上元盛の旧領を相続した。
安芸平賀攻めで戦功をあげると、
豊前小倉津の検使、出雲新山城の普請奉行などをした。


井上就兼

井上元兼の嫡男。
1550年の井上一族の誅伐の際に、
郡山城にて桂就延に殺害される。


井上元勝

井上就正の嫡男。
備中加茂の戦いで戦死する。


井上就重

井上勝光の五男で井上光兼の弟の、井上光家の子息。
1550年の井上一族が誅伐を受けた際は免れた。
その後は毛利元就の奉行人として活躍し、
毛利元就の被官衆にに打渡状を発給したり、
被官衆に軍事行動を指揮したり、検使などもつとめた。


井上元貞

井上一族・井上光貞の弟。
1523年の毛利元就に宗家相続を要請した、
宿老15人のうちの1人に確認されている。
その後、尼子氏のもとに人質として派遣され、
毛利元就が尼子氏を離反すると、
密かに月山富田城を脱出したが、攻められ討死したという。


井上元有

井上一族。
1550年の井上一族の誅伐の際には、
小早川隆景に殺害される。


井上元重

井上一族。井上元有の弟。
1550年の井上一族の誅伐の際に殺害される。


井上有景

井上一族。
井上元有の嫡男。(井上元有の父という説もあり)
1532年の家臣団32名が互いの利害調整を、
毛利元就に要請した起請文では16番目に署名している。
しかし、その後の経歴は不明。


井上就在

井上一族。
1523年の毛利元就に宗家相続を要請した、
宿老15人のうちの1人に確認されている。
しかしその後の経歴は不明。


井上元吉

井上一族。
1523年の毛利元就に宗家相続を要請した、
宿老15人のうちの1人に確認されている。
しかしその後の経歴は不明。


出羽元倶

毛利元就の五男。
出羽二山城主・出羽元祐の養子となる。
しかし、17歳で死去。


井原元師

毛利家当主・毛利弘元の娘を妻とする。
1532年の家臣団32名が互いの利害調整を、
毛利元就に要請した起請文で署名する。


井原元造

井原元師の子息。
1550年前半に備後に出陣して戦功を賞されると、
防長侵攻の際には石見・小笠原長雄を攻撃する為に築城した、
石見井原城の番や各地から集まった人質の番をつとめた。



桂景信

桂元澄の四男。小早川氏家臣。
毛利元就と毛利隆元が高山城へ訪れた際に、
椋梨宣平が小早川家臣代表として、桂景信の私宅で歓迎し、
小早川隆景、平賀広相、熊谷信直らの武将と共に宴を開いた。


桂就延

桂広澄の三男。
井上一族族滅を決行した際に、
井上就兼を郡山城にて殺害する。


桂就宣

桂元忠の嫡男。
父の桂元忠の役職を引き継ぎ、五奉行を行う。
また毛利輝元元服の際には初献の御酌をつとめる。


桂元澄

桂広澄の嫡男。
1523年の毛利元就の宗家相続の際には、
一族の責任をとって桂広澄の後を追って自刃しようとするが、
毛利元就になだめられたといわれ、自刃を思いとどまる。
1554年の毛利元就が陶晴賢との縁をきって攻撃を始めると、
厳島神社の神領であり本拠の桜尾城を預けられる。
その後も、神領を領土として与えられて、
厳島神社の造営修理の造営人足を賦課するなどした。
さらに1561年の大鳥居の造営でも統轄をした。
このように厳島などのなどをはじめとし神領の管理を行った。


桂元忠

桂広澄の次男。
毛利家中でも正路といわれて側近に抜擢される。
児玉就忠と共に給地などの奉行人をつとめる。
1550年の毛利隆元の五奉行の1人に選ばれると、
毛利元就奉行人などの形成にも参画している。
毛利元就と毛利隆元をつなぎ役も行っていた。


桂元親

桂元澄の三男。
長宗我部氏との対決で奮戦するが、
長宗我部氏の猛攻にあって手を引く。



桂広繁

桂元澄の五男。
父の桂元澄の所領を相続すると、主に穂田元清の補佐をした。
備中高松城の戦いでは、加茂城を守り、
3000人をこえる軍勢で備中高松城を支えた。


桂広澄

毛利弘元・毛利興元に執権職の地位にあった坂広明の嫡男。
桂村に在住したことから姓を桂と改めた。
1523年に毛利元就の宗家相続の以来をした15人のうちの1人だが、
一族である坂広秀を始めとした武将が毛利元就に反逆したことで、
一族の責任として自刃した。


桂保和

桂広澄の四男。平賀広相の家臣。
江田氏の高杉城攻め、福屋隆兼討伐に参加すると、
鞍掛城攻め、周防沿岸の戦いでも活躍する。


桂元親

桂元澄の三男。
防長攻略の際の山代一揆討伐をすると、
毛利隆元から褒め称えられ、長門且山城も攻撃する。
その後、長宗我部氏との対決で奮戦するが、
長宗我部氏の猛攻にあって手を引く。


桂広景

有田合戦で活躍し感状をもらう。


桂元重

尼子義久降服を認める起請文を送る。
また、立花山城を攻め落とした後に入城して主将となる。


桂元信

防長移封になると、萩城の近くに洞春寺を移すための、
普請奉行となり、13年の月日をかけ完成させる。


桂元将

陶晴賢謀反で、大内氏属城を責めた際の、
吉和山里の一揆で活躍すると、
厳島の戦いでも20人の敵首を獲得し、
鞍掛城攻め、福屋隆兼討伐、富田城攻めでも活躍した。


兼重元鎮

毛利豊元の3男。
正室の子ではなかったために、幼少の頃に大通院に預けらるが、
成人した後に出家を嫌ったために、吉川家家臣の笠間氏の養子となり笠間元鎮と名乗る。
その後、毛利元就が吉田に誘うと吉田庄兼重から兼重氏を名乗った。
1540年の軍山の戦いで深手を負うとそれがもとで死亡した。


兼重元宣

兼重元鎮の息子。
兼重元鎮より家督を相続すると、
毛利輝元より、下総守の受領を授けられる。


兼重元続

兼重元宣の嫡男。
兼重元宣より所領を譲与される。



北就勝

毛利弘元の四男。毛利元就の弟。
足が不自由だったため出家して常楽寺の住職になるが、後に還俗して元就の家臣となり、
毛利元就が滅ぼした安芸高橋氏の庶家・北氏の所領を相続したと見られる。

また、一時は息子がいないため毛利元就の次男・元春が養子へ行く予定だったが、
元春が吉川家に養子へ行くと、これはなくなっている。


吉川元春

毛利元就の次男。
12歳で宮崎長尾合戦で初陣し武功を上げる。
さらに吉川家を相続し、熊谷信直の娘と結婚をする。
厳島の戦いでも武功を上げ、その後は山陰の武将との交流がふえる。
さらに、吉川元春は山陰・山陽・四国・九州と戦争に勝ち進む。
そして、尼子氏との月山富田城攻めにも活躍する。
なかでも山中鹿之助・立原久綱らが守った場所攻めは奮戦した。
またこの長引く攻城戦で、太平記を四十巻筆写したというのは有名。
弟の小早川隆景と共に本家の毛利輝元を補佐し、毛利両川として活躍する。
九州征伐の時、秀吉の強請で参加するが、小倉城で病死。

生涯75の合戦に臨み、64度勝ち負けは1つも無かった。



口羽春良

口羽通良の嫡男。
尼子家再興軍を牽制するために城に入ると、
三村氏の反乱後を国人の不安を抑える為に国山城に入る。
また、尼子家再興軍の降服の際の起請文の毛利氏側の代表としてを名連ねる。


口羽通良

志道元良の次男。
始めは、志道通良と名乗っていたが、
石見国の口羽に住んだことから口羽通良と名乗る。
主に、吉川元春を補佐して山陰地方の支配を担い、
出雲の赤穴氏の宿老・来嶋清行を通して、起請文を取り交わすと、
同じく出雲の湯原氏の軍忠を毛利氏に伝えるなどした。
毛利隆元が死去すると、毛利輝元を補佐し、
吉川元春、小早川隆景、福原貞俊とともに政策に参画し、
毛利家の中心人物となった。



国司有純

毛利元就の幼い頃からの後見役。
その功績あって、小脇差を与えられる。




国司有相

国司有純の嫡男。
毛利豊元の娘を妻にもらうと、
毛利豊元の嫡男・毛利弘元、毛利興元、幸松丸の3代を、
毛利家の奉行として井上元景と共につとめた。
1499年に温科国親との戦いで敵を討ち取る戦功をあげると、
1511年の毛利興元の船岡山の戦いの戦功で領地をもらっている。
毛利元就の宗家相続の際には、共に奉行をつとめた井上元景とともに、
宿老15人の連署状を毛利元就に届けるなどした。
その功績を認められ、毛利元就より小脇差を与えられる。



国司就信

譜代家臣で、毛利元就を烏帽子親として国司就信と名乗る。
毛利隆元が山口に人質にいくとそれに従い所領を得る。
また、北九州の所帯裁判奉行を務めると、
さらに防長の段銭奉行をつとめて管理に活躍する。
さらに長門日山城の普請を行うと、大内義隆33回忌の執行を行った。
この後毛利輝元の命令で葬儀に列席するなどした。



国司元相

国司有相の嫡男。
毛利隆元の守役として活躍すると、
毛利隆元の元の字を拝領して、国司元相と名乗る。
尼子晴久による郡山城攻めのときに34人の敵を倒すと、
尼子攻めにも活躍するがこの時は傷を負っている。
松山城攻めでも戦功をあげると、
毛利隆元の五奉行制の一員となって活躍した。
また、足利義輝に槍の鈴の免許されている。




国司元武

国司元相の嫡男。
国司元相から五奉行の職を譲られ、貢献した。




国司元純

長生きをした古老で、毛利家の家風を尊重する武将としていわれた。



国司元信

山口の守将として活躍。
大内義隆の33回忌にも参加する。




児玉元保

児玉広家の次男で、児玉元実の弟。
1516年の宍戸氏の五龍城攻めや、
有田合戦前後の武田元繁との対決に参加する。
1542年からの尼子氏是目で討死した。


児玉就秋

児玉広家の五男で、児玉元実の弟。
兄・児玉元為の養子となる。
毛利元就の側近として政務を行うほかに、
1535年の備後三吉氏の城・上里城攻めや、
1540年の平賀興貞との対決などに参戦する。
そのほか防長侵攻戦では吉川元春の軍勢に加わり、
石見を攻撃すると、そこに領地をもらっている。
さらには伯耆に出撃させる警固船の水夫の略奪や、
安芸飯山普請など数多く命じられている。


児玉就兼

児玉元実の嫡男。
1507年に安芸高田原の戦いにて戦功をあげる。


児玉就忠

児玉元実の次男。
児玉一族の児玉家行の養子となり、遺領を相続する。
毛利元就から行政に優れていると認められ、
桂元忠と共に毛利元就の側近となる。
1550年に毛利隆元の五奉行制になるとそれに加わり、
被官衆への打渡を任務する奉行人にも参画した。
五奉行となっても毛利元就とは被官関係で、
毛利元就と毛利隆元との間をつなぐ使者も行っていた。


児玉就方

児玉元実の三男。
兄・児玉就忠によって推挙されると毛利元就の側近となる。
1536年の安芸生田城攻めでは感状を得る。
その後、毛利氏直属水軍・川ノ内警固衆が形成されると、
飯田義武、宍戸元親と共に指揮官に任命される。
ここから、川ノ内警固衆と毛利氏をつなぐ役となり、
1561年の大友氏との対決、1570年の尼子氏との対決など、
川ノ内警固衆を率いて水軍として活躍した。
また毛利元就の奉行人制度が形成されるとこれにも参加した。


児玉元茂

児玉元保の息子。
1553年の備後三上郡高の戦いや、
備後三若城攻め、翌年の安芸明石口の戦いで戦功をあげる。


児玉就光

児玉就兼の嫡男。
1540年の郡山城籠城戦や、1542年尼子氏攻めや、
1554年の安芸矢野城攻め、安芸明石口の戦い、
さらには1569年の周防五ヶ村一揆の鎮圧にも参戦した。
1572年の毛利氏掟では奉行のもとで、
政務行った番衆の1人として確認されている。
1580年の備中加茂の小倉城攻めでは、次男・児玉元房を亡くしている。


児玉元良

児玉就忠の嫡男。初名、児玉元実。
1562年に亡き父の後を継いで五奉行に参画すると、
1572年の毛利氏掟でも奉行人の1人として確認されている。
1578年の上月城攻めに参加をする。
さらにこの戦いで羽柴秀吉軍の攻撃により嫡男・児玉元兼が負傷した。


小早川隆景

毛利元就の三男。
竹原小早川家の当主になり、その後本家である沼田小早川を相続する。
厳島の戦いでは、村上水軍を味方につけて、陶晴賢を挟み撃ちにした。
村上水軍が陶晴賢の水軍を打ち破り勝利に大きく貢献した。
月山富田城攻め・九州出征と戦で武功を上げると、
外交・内政も担当し、織田信長との交渉をする。
備中高松城をめぐる攻防では、羽柴秀吉と講和をする。
四国征伐の功で伊予35万石に封ぜられ、
九州征伐では、50万石を与えられる。
小田原の役・朝鮮出兵などの功も目立ち、豊臣秀吉の五大老となる。
しかし毛利家の忠誠心は変わらず、
毛利本家に継がせようとした秀吉の甥・秀秋を自らの養子に迎える。


小早川秀包

毛利元就の九男。
大田秀綱の養子となり大田姓を名乗ることになるが、
小早川隆景に子供が出来ないことから、小早川家の養子になり小早川元総と名乗る。
備中高松城攻防戦の末に和睦すると、小早川家からの人質としていく。

このとき豊臣秀吉に寵愛され、元総から秀包に改名する。
また毛利本家に継がせようとした秀吉の甥・秀秋を小早川家の養子にしたことから、
別家を建てて毛利姓に戻る。






坂元貞

毛利家譜代の志道広良の次男。
坂広秀の跡をついで、坂氏を再興させると、
父の志道広良から所領を譲与され、
その後、毛利元就や毛利隆元からも所領を安堵されている。


坂元祐

坂氏の一族と伝えられている。
坂広秀らが殺害されると、平賀隆宗の元に落ち延びたといわれ、
平賀隆宗が死去すると、成人後には毛利家に仕える。
1555年には周防の玖珂郡山代五ヶ地方の土豪を編成して山代衆の指揮官となり、
山代衆に関連することはほとんど取り仕切っている。
1556年には山代衆を率いて長門へ出陣し、さらに出雲にも出陣すると、
1562年には豊前に出陣して立花城攻めを行う。
立花城に入ると乃美宗勝と共に守将となり、その後無事に撤退した。


坂広時

毛利元就が尼子氏へと通じると、
大内氏よりであったために、毛利元就に責められ自刃した。


坂広秀

桂広時の息子。
1523年の毛利元就の宗家相続依頼の時には、
宿老15人の中の1人として署名している。
しかし、渡辺勝らと組んで尼子氏と通じて毛利元就を殺害し、
毛利元就の弟の相合元綱をたてようとするのが露見したため殺害される。


坂広昌

毛利輝元の元服式で烏帽子の役を務める。


坂保良

折敷畑の戦いで、坪井将監と共に敵陣に突進し、
暫く戦うと後退して敵を誘き寄せることを務めた。






志道広良

志道元良の嫡男。
毛利興元と幸松丸の執権をつとめた武将で、
毛利興元の執権時に、毛利元就に毛利興元の忠誠を誓わせる。
幸松丸が死去すると、毛利元就の宗家相続依頼の15人のうちの1人となり、
毛利元就の前半の執権をつとめた。
また毛利隆元の指導も行い、有名な明言でもある、
「水あっての船、家来あってこその大名」
といって大名の心得をといたりいて指導した。


志道元保

志道広良の嫡孫。
父が1539年に亡くなったことから、家督を相続する。
安芸国の中麻原代官をつとめたりもした。


志道就良

大内氏を滅亡させたのちに周防に領地を得る。



末次元康

毛利元就の八男。
出雲末次城主になり、末次氏を称する。
兄・元秋の死後、後を継ぎ富田城主となる。
朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで大津城攻めに参戦した。
毛利八家の厚狭毛利家の祖となる。


椙杜元秋

毛利元就の五男。
蓮華山城主・椙杜隆康の養子とな
る。
尼子家の富田城が落城した後、富田城主となり、富田氏を称する。

その後、元秋が死去すると弟の元康が富田城主となる。



内藤元泰

1564年に毛利輝元を烏帽子親として元服する。
曽祖父・内藤元泰の代に毛利家譜代化したが、
尼子義久、倫久、秀久兄弟を内藤氏の領内の、
長田円明寺に収容したことからその警備をすることになる。
しかしその為、譜代に課せられる軍役や諸公役は免除された。
1572年の浦上氏攻めでは宇喜多氏へ加勢の出陣をした、
備後衆の検使を行い備前方面の戦闘の数々に参戦した。


中村元明

安芸武田氏に仕えていたが、毛利弘元から勧誘を受け、
兄・中村繁勝を切腹させて毛利弘元に帰属した。
毛利弘元の嫡男・毛利興元の上洛時には側近として追従し、
毛利興元の死後、1523年の毛利元就に宗家相続を依頼した、
23人の宿老の1人にも確認されている。
郡山籠城戦で活躍している中村弥次郎は次男と思われる。


長屋吉親

長屋氏を称した長屋泰親には継嗣がいなかったために、
長屋泰親の弟の長屋教親を養子とした。
この長屋教親の嫡孫が長屋吉親にあたる。
相互の利害調整を要請した起請文にも署名するなどした。


長屋吉忠

長屋吉親の弟。
のちに元直と名乗り、安芸国高田郡長屋を治めた。


長屋元安

長屋義忠の嫡男。
1536年に父・長屋義忠から領土を一部譲与される。



二宮就辰

小早川隆景と穂田元清の間の毛利元就の子。

毛利家に仕えた二宮春久の子とされるが、
側室の中の丸が輝元に密かにいったことによりわかる

毛利輝元の代では政務に携わり、普請奉行として広島城とその城下町の建設を行った。

毛利輝元の信頼はあつく、側近として仕えている。



平佐就之

毛利家の年寄衆。
毛利元就の御手廻役を務めると、
毛利元就に家臣からの申し出を取り付けば、使者も行い側近として活躍。
白鹿城攻めでは桜井就綱とともに敵を追い返して、小高丸を奪取して感状を得る。



福原広俊

1523年に毛利元就の宗家相続を要請した宿老15人の連署状のうちの1人。
1531年に、家臣団の利害調整を毛利元就に依頼した起請文の筆頭にも署名する。
1540年の郡山篭城戦では鈴尾城(福原城)を守備する。
娘は桂元澄・内藤元康(口羽通良)・和智誠春・天野隆重・杉重良に嫁ぎ、
毛利家に忠誠を尽くし、1557年に死去。


福原元勝

福原広俊の弟。
三吉広隆を援助するために、府野の戦い参戦。


福原貞俊

福原広俊の嫡男。
毛利元就に、正直な人物として信頼されると、
1550年の井上一族族滅作戦直後に毛利家への忠誠を示した規請文の筆頭に署名する。
毛利隆元が死亡すると、吉川元春・小早川隆景とともに、
毛利家の政策に参画をするようになる。
毛利輝元の相談に乗っていただきたいと毛利元就からも頼まれている。
1567年に吉川元春・小早川隆景・口羽通良を加えた4人で
毛利輝元の両国支配を補佐する。
口羽通良と吉川元春が山陰地方に、
福原貞俊と小早川隆景が山陽・瀬戸内地方を担当する。
娘は三吉隆経・平賀広相・熊谷元実に嫁ぐなど、毛利家の発展に貢献した。


福原元正

福原広俊の次子。
吉川元春が新荘に入城する際に、家臣36人の筆頭として入城する。


福原元俊

福原貞俊の嫡男
1588年に豊臣姓を与えられた。
萩藩閥閲録では51歳死去、福原家譜では44歳死去と書いてある。


福原広俊

福原元俊の嫡男
関ヶ原の戦いでは東軍に内通して、
吉川広家とともに毛利家存続のために奮闘した。



福原元頼

福原広俊の弟。
関ヶ原の戦いの当日になると、吉川広家が東軍の陣営にいかせた。

また福原某様の情報で、
また、秀就の代に出頭役、就隆の後見役として徳山へ赴くも、
後に本藩へ差返されたとのことだそうです。

情報提供有難うございますm−−m


福原俊親

富田城の戦いで戦功をあげる。



穂田元清

毛利元就の四男。
備中猿掛城主・穂田元資の養子となる。
備中攻略のため、矢掛城の守備をすると、
備前・児島の戦いでは宇喜多直家を撃破する活躍をする。
山中鹿之助の拠る播上月城を陥落させるなどの武功が高い。
また、羽柴秀吉と戦い和睦すると、中山城を築いて移る。
さらに次男の秀元が毛利輝元の嗣子となると、桜尾城に移る。
内政では広島城及び城下の普請奉行を務める。
その後、文禄の役にも従軍し、活躍をした。
 



南方親定

毛利家臣。大内軍が月山富田城を包囲した際、
敵方の河本弥兵衛の館を秋山親吉と共に占拠していたが、
長雨により富田川の水位が増し、尼子軍の集中攻撃を受け危機に陥る。
ただし、この時、元就が自ら手勢を率い、尼子軍を撃退したため、窮地を脱出した。

防長戦国譚の因幡真親氏に頂きました。)



南方就正

毛利家家臣。南方家は元々門司家の支流・大積門司家の出身で、
就正の父・元次から毛利興元に仕え、譜代家臣として扱われた。
大内家滅亡後、就正は佐波郡右田ヶ嶽城(山口県防府市)城代に任命される。
これ以降、就正は右田ヶ嶽城主として、山口奉行・市川経好の補佐をする。
(注・この右田ヶ嶽は山口を南から守るための拠点であり、
毛利家の防長支配において、欠かすことの出来ない城である。
この事から、南方就正は元就・輝元から深い信頼を得ていたのだと思われる)
大内輝弘の山口侵攻の時、輝弘敗走の際、これを追いかけ、輝弘の首を上げる。
後に天正九(1581)年9月頃、粟屋元定らと共に、備中忍山相城(現・岡山市)に在番。

防長戦国譚の因幡真親氏に頂きました。)



毛利興元

毛利弘元の長男。毛利元就の兄。
父の弘元から家督を譲られ第10代毛利家の当主となると、
足利義植を奉じて大内義興の上洛に参加して京都に4年間滞在した。
安芸では有力8家と結び、備後国では山内・木梨の衝突の調停を行うなど活躍する。
また、武田元繁が己斐城を攻めると、己斐城の救援する為に出陣する。
しかし、24歳で急逝。死因は酒害といわれている。


毛利隆元

毛利元就の長男。
毛利元就が相続問題で尼子氏から大内氏へ乗り換えるときに大内氏の人質になる。
人質に入った後に元服し、大内義隆から隆の一文字のとって隆元と名乗る。
毛利元就より家督を譲られ、当主になる。
陶晴賢を厳島の戦いで討ち破ると防長攻略・石見攻めなどに参戦し、
次男・吉川元春、三男・小早川隆景とともに元就を助ける。
その後は九州にもへ出陣し、その領土を拡張して行ったが、
出雲の毛利元就を助けるために引き返しに行く途中、
和智誠春の手厚いもてなしを受けるが間もなくして急死する。


毛利弘元

毛利豊元の長男。
毛利豊元が死去すると9歳で相続し、大内氏の傘下に入る。
毛利家の安泰と発展につとめ、難題をのりこえたが、
39歳で死去。
死因は酒害といわれている。



渡辺勝

井上元兼とともに多治比の毛利元就に家督相続に依頼をすると、
毛利元就宗家相続の15人のうちの1人として連署するが、
毛利元就が宗家を相続した後に、
尼子氏と結んで相合元綱を擁立しようとしたため殺害された。


渡辺通

渡辺勝の嫡子。
父の渡辺勝が殺害された後は、山内直通の元に落ち延びた。
その後、山内直通が頼み毛利元就は承諾して渡辺家は再興した。
そして毛利元就の家臣としてなると、
大内義隆の尼子氏攻めの際の敗走で、毛利元就勢の危機となると、
毛利元就の甲冑を着用して討死した。
その後、毛利元就は無事に帰還することができ、
渡辺家を見捨てないことを誓ったといわれる。


渡辺長

渡辺通の嫡子。
厳島の戦いや大友氏との門司の戦いで活躍すると、
毛利輝元に従って上洛をした。
豊臣の姓を授けられている。


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